伝記
エミール・ベルナールは、1868年4月28日にフランス北部のリールで生まれた画家、版画家、著述家である。ポスト印象派に数えられ、ポン=タヴァン派と結びつけられる。父エミール・エルネストは織物商で、母はエロイーズといった。1870年に戦争を避けて一家はルーアン近郊に移り、1878年、父がパリ支店を任されたのを機にパリに移った。少年ベルナールは装飾美術学校で素描を学び、1881年にはフォントネ=オー=ローズのサント=バルブ校に入って三年間を過ごした。1884年に、家族の友人だったロシア人画家の紹介でフェルナン・コルモンの画塾に入り、ここでルイ・アンクタンやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックと出会った。二人にルーヴル美術館やモンマルトルの酒場へ連れていかれ、ロートレックは1886年にベルナールの肖像を描いている。
1886年、規律の乱れを理由にコルモンのアトリエを追われたベルナールは、パリを離れ、ノルマンディーやブルターニュ半島を歩いて旅した。コンカルノーで画家エミール・シェフネッケルに会い、ポール・ゴーギャンへの紹介状をもらってポン=タヴァンへ向かったが、このときはゴーギャンとほとんど話せなかった。1886年から87年の冬、パリでフィンセント・ファン・ゴッホと出会い、点描による絵を描いた。1887年の春に再びノルマンディーとブルターニュを訪れ、サン=ブリアックで2か月を過ごしてからポン=タヴァンに着いたが、ゴーギャンとシャルル・ラヴァルはカリブ海のマルティニークに出かけていた。ベルナールは点描を捨て、アンクタンとともにクロワゾニスムを発展させた。自然主義にも印象派の形の解体にも抗して、純粋な絵画を求めた彼は、浮世絵に学んで形を単純化し、遠近法をなくす方向へ進んだ。1887年の『リンゴのある壺』の裏に「総合主義と単純化の最初の試み」と書き込んだ。セザンヌへの称賛も、この画面に表れている。
1888年8月、ポン=タヴァンに戻ったゴーギャンと、ようやく本格的な出会いを果たした。ベルナールは三つ年下の妹マドレーヌとともに滞在していた。二人は芸術の上でも大きな転機にあり、これ以後、ともに「総合主義」(サンテティスム)を作り上げていった。同じ年、総合主義の代表作「草地のブルターニュの女たち」を制作している。ゴッホは1888年8月、ベルナールに手紙を書き、その静物画に意志の強さと確かさを感じると述べ、「君はこれほどレンブラントに近づいたことはなかった」とまで言った。1889年、ポン=タヴァンの画家たちのグループは、パリ万国博覧会に合わせてカフェ・ヴォルピニで展覧会を開き、ベルナールも出品した。1891年、ゴーギャンとの間で諍いがあり、二人は絶交するに至った。
1893年以降は、パトロンのラ=ロシュフコーの支援を受けながら、イタリア、エジプト、スペインなど諸国を転々とし、エジプトには1904年まで住んだ。1904年に帰国すると、エクス=アン=プロヴァンスでポール・セザンヌと出会った。晩年は、ミケランジェロやヴェネツィア派などの影響を受けて、アカデミックな画風に従うようになった。ジャン・ドルサルの筆名で詩を書き、小説や戯曲、美術批評も残している。1941年4月16日、72歳でパリで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- フランク・ウォーラー (1941年没)
- ラーマ7世 (1941年没)
- ヒュー・ウォルポール (1941年没)
- ヴェルナー・メルダース (1941年没)
- 九鬼周造 (1941年没)
同じ地域に関係する人物
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- シャルル・メシエ (1817年没)
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