伝記
シャルル・メシエは、1730年6月26日に生まれ、1817年4月に亡くなったフランスの天文学者である。星雲、星団、銀河に番号を振った『メシエカタログ』を作ったことで知られる。ロレーヌのバドンヴィレで、公国の行政に携わる父ニコラと母フランソワーズの、12人の子の10番目として生まれた。1741年、11歳のときに父が亡くなると、長兄イアサントが家長となって教育を担い、8年間、事務的な作業を彼に仕込んだ。そこで細部を観察する感覚が身についたことが、後の仕事に役立ったという。1748年7月に、バドンヴィレで見えた金環日食など、まれな天文現象が、天文への関心を強めたと考えられている。
1751年、兄が機会をつくり、9月にパリへ出て、フランス海軍の天文官ジョゼフ=ニコラ・ドリルの助手となった。ドリルは自分の住居に彼を置き、最初の仕事は、中国の万里の長城の地図を詳しく写すことだった。ドリルの天文台で、観測機器の使い方や観測の細部を記録することを学び、位置の正確な測定の有用性も教わった。記録された最初の観測は、1753年5月6日の水星の太陽面通過である。航海天文台の事務員となって、彗星の発見に没頭し、1758年冬から、過去の観測から予報されていたハレー彗星の捜索を始めた。
1759年1月21日にハレー彗星を発見し、ドリルから表彰されたが、それはヨハン・ゲオルク・パリッチュによる発見(1758年12月25日)の1か月後だった。パリッチュがヨーロッパ中に名を知られたのとは対照的に、メシエはいわれのない誹謗中傷を受けたが、その屈辱をばねにして、彗星の探索にさらに没頭した。ハレー彗星の捜索中の1758年8月28日、彗星によく似た淡い天体を見つけ、星に対して動かないことを確かめて、最初の深宇宙天体を発見した。これが後に「M1」と呼ばれる星雲で、有名なカタログの最初の項目となった。
1760年、ドリルの退官で天文官に就任し、1764年にはロンドン王立協会の外国人会員となった。彗星の捜索の際に、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口し、1764年初めからその天体のリストを作り始めた。同年末までに、自ら発見した18個にそれまで知られていた天体を加えて、40個のリストを作った。1769年に大彗星を発見してプロイセン科学アカデミーの外国人会員となり、翌1770年にもレクセル彗星を発見して、同年フランスの科学アカデミーの会員となった。生涯に発見した彗星は13個で、ルイ15世は彼を「彗星の狩人」と呼んだ。1806年にはナポレオンから勲章を授けられた。
カタログは、1774年に第1巻(M1からM45)、1781年に第2巻(M46からM68)、1784年に第3巻(M69からM103)が発表された。たとえばM31はアンドロメダ銀河である。カタログの体裁を整えるため、末尾の数字を0か5にそろえようとして、二重星や、彗星と間違えるはずのない星団なども入れていた。後の観測で、これらに星雲以外の星団や銀河が多く含まれることがわかった。月のクレーターと小惑星7359番に、その名が付いている。
同じ年に亡くなった人物
- エティエンヌ=ニコラ・メユール (1817年没)
- ゾフィー・カロリーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1817年没)
- アンドレア・アッピアーニ (1817年没)
- シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ (1817年没)
- アレクサンダー・ダラス (政治家) (1817年没)
同じ地域に関係する人物
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- イヴェット・コショワ (1999年没)
- ルイ=アドルフ・ベルティヨン (1883年没)
- モーリス・デコブラ (1973年没)
- ジョルジュ・ド・ポルト=リッシュ (1930年没)