HISTORICAL PERSON · 1867年没

ジャン=ヴィクトル・ポンスレ

フランスの数学者・工学者。ロシア遠征で捕虜となり、収容所で射影幾何学を研究して、その復活に貢献した。

生涯
1867年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(メス)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン=ヴィクトル・ポンスレは、1788年7月1日にフランスのメスで生まれた数学者、工学者である。父クロード・ポンスレはメスの高等法院の弁護士であった。ポンスレはメスのリセで人文学を学び、軍人の道を選んだ。奨学金を得てエコール・ポリテクニークに進み、ガスパール・モンジュやラザール・カルノー、アンペールらの教えを受けた。1812年2月に同校を卒業し、メスの工兵学校を経て工兵将校となった。同年6月には、ナポレオンのロシア遠征に工兵中尉として従軍した。

スモレンスクの戦いで戦ったのち、ミシェル・ネイ元帥の軍を援護する任務についたが、11月18日のクラスノエの戦いで捕虜となった。大佐は戦死し、彼自身も乗っていた馬を撃たれたと伝えられる。凍てつくロシアの冬に、約1500キロ離れたヴォルガ川沿いのサラトフまで、およそ4か月かけて歩かされた。モスクワからの退却の際には死んだものと思われていたという。サラトフの捕虜収容所に収監されたのは1813年から1814年にかけてで、ここで一切の書物を奪われた彼は、数学の基礎に没頭した。パッポスに始まり、デザルグやパスカルによって取り上げられた射影幾何学の基本原理を、このとき形にしたとされる。図形とその影に共通する性質を研究し、円錐曲線も研究して、ジェルゴンヌとは独立にその理論を発展させた。数学界では、近代射影幾何学は、サラトフの獄中で生まれたとしばしば言われる。

1814年にフランスへ送還されると、すぐにメスで工兵の職務を再開した。その成果は、1822年に『図形の射影的性質について』として出版された。この本は、19世紀の数学を純粋な幾何学へ向かわせたとされ、双対原理を含んでいる。のちに『解析学と幾何学の応用』が、二巻本として1862年から1864年に出版された。1824年に考案した「曲面水車」で翌年アカデミーのモンティヨン賞を受け、1825年にはアラゴの推薦でメスの砲兵工兵学校の力学を担当することになった。講義のなかで、物質が繰り返し圧力を受けて機能を失う様子を説明するために、「疲労」という言葉を造ったとされる。また、水を外側から内側へ流す水車を1826年に提案した。この水車は、のちにフランシス水車として1838年に造られた。1829年の『産業力学序説』で広い応用性を示し、力と並進運動から生じるものとして、仕事の概念を導入したと考えられている。

1834年に科学アカデミーの会員に選ばれ、1830年代末にはソルボンヌの力学の教授となった。1842年には王立協会の外国人会員となった。1848年に将軍に任じられてエコール・ポリテクニークを指揮し、5月15日には武装した学生を率いて政府に協力を申し出て、6月から学校の改革を始めた。1850年に、数学研究に専念するため政務を辞した。1853年にはレジオンドヌール勲章のグラン・トフィシエに叙せられた。1867年12月にパリで没し、翌年、科学アカデミーはポンスレ賞を創設した。フランスの仕事率の単位ポンスレは彼の名に因み、その名はエッフェル塔に刻まれたフランスの著名な技術者・科学者の一人にも数えられている。

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