伝記
ラーマ7世は、1893年11月8日、バンコクの王宮で、国王ラーマ5世と王妃サオワパー・ポンシーの間に生まれたチャクリー王朝の第7代のシャム国王である。通称はポッククラオといい、幼名の一部からプラチャーティポックとも呼ばれる。タイにおける最後の絶対君主であり、最初の立憲君主となった。9人の子のうち末子で、ラーマ5世の子の中では33番目、最年少の王子だった。王位を継ぐ見込みは薄く、軍人の道を選んだ。多くの王子と同じく外国に留学し、1906年にイギリスのイートン・カレッジに入り、ウーリッジ士官学校を1913年に卒業して、オールダーショットの王立騎馬砲兵隊に任官した。
1910年にラーマ5世が崩御し、兄のラーマ6世が即位した。第一次世界大戦が起こってシャムが中立を宣言すると、ラーマ6世は弟にイギリスの任官を辞して帰国するよう命じ、前線で部下と戦いたかった王子にはたいへんな屈辱だったという。帰国後は軍の高官となり、1917年には慣習に従って一時出家した。1918年8月、ラーマ4世の孫で従妹にあたるラムパイパンニー王女と結婚した。大戦後にはフランスの陸軍大学校で学び、帰国してスコータイ公の称号を得た。夫妻は子に恵まれず、チャオプラヤー川沿いのスコータイ宮殿で穏やかに暮らしていた。やがて兄たちが相次いで亡くなり、1925年にラーマ6世が44歳で崩御すると、32歳で王位に就いた。ラーマ6世に成人した子がなかったための、急な即位だった。戴冠式は1926年2月25日に行われた。
準備不足のまま王となったが、聡明で、人付き合いは外交的で、謙虚で、学ぶ意欲に富んでいたとされる。ただ、前王から引き継いだ負債や、混乱した王室の会計という問題を抱え、世界は世界恐慌の渦中にあった。王はほぼ最初の仕事として、5人の王族からなる最高顧問会議を設けた。財政の悪化はどん底に達し、王室費を900万バーツから最終的に300万バーツまで切りつめる「合理化」を行った。官僚の人事も合理化したため、とくに民主的な雰囲気の中で教育されたフランス留学組の官僚の怒りを買った。この危機感が、のちに人民党を生む。
1931年に眼病手術のためアメリカを訪れた際、議会制の導入を考えるようになった。憲法草案を作ったが、いざ発表という段階で最高顧問会議を中心とする王族の猛烈な反対に遭い、断念する。業を煮やした陸軍大佐パホンポンパユハセーナー伯爵らの人民党が、王が療養のためフワヒンに出かけている最中に立憲革命を起こし、1932年に王に憲法を発布させた。ラーマ5世以来続いた絶対君主制は終わった。新政府は王政を廃止せず、立憲君主制を導入したが、王は翌年、目の病気を理由にイギリスへ向かった。新政府は帰国を求めたが、王は拒み続け、1935年、民主制に移ろうとしないパホン政権に抗議して自らの意志で退位した。
これより前、1924年にはラムパイパンニー妃とともに来日し、1931年4月にも眼病治療のため渡米する途中、非公式に日本を訪れた。国王として初来日で、4月8日に天皇皇后と会見し、鎌倉の高徳院で植樹もした。退位後はイギリスで不遇のまま過ごし、子がなかったため、閣議と議会は甥の幼いアーナンタ・マヒドン王子を王に迎えた。1941年5月30日、イギリスで心臓発作により亡くなり、遺骨は1949年にタイへ戻った。
同じ年に亡くなった人物
- ポール・サバティエ (1941年没)
- ヘルヴァルト・ヴァルデン (1941年没)
- ドーブリ・フリストフ (1941年没)
- ジョルジュ・ミンヌ (1941年没)
- モーリス・ルブラン (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・フィリップ (フランス王) (1850年没)
- アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵) (1929年没)
- イアン・ポーターフィールド (2007年没)
- ジャック・チャーチル (1996年没)
- Dave Morgan (2018年没)