伝記
ヤークート・ムスタアスィミーは、中世イスラーム世界を代表する三筆の一人に数えられる能筆家である。残る二人はイブン・ムクラとイブン・バウワーブとされる。13世紀前半に生まれ、生涯のほとんどをバグダードで過ごした。名前はより詳しくはジャマールッディーン・アブル・マジュド・ヤークート・ブン・アブドゥッラー・ルーミー・ムスタアスィミー・タワーシー・バグダーディーという。ヤークートとは、ルビーやサファイアなどの宝石を意味する名で、中世イスラーム世界では奴隷の名に宝石の名がよく用いられたため、奴隷か解放奴隷の身分であったと推定される。父の名がアブドゥッラー・ルーミーとされることから、父はビザンツ帝国領に住む異教徒、たとえばキリスト教徒であったと推測されている。
出自には諸説あり、父は現在のトルコ領アマスィヤのギリシャ系の人物で、ヤークートはごく幼いころにバグダードへ連れてこられたとする説がある。宦官の近習としてアッバース朝最後のカリフ、ムスタアスィム・ビッラーヒ(在位1242年〜1258年)の宮廷に仕え、宮廷では書記としてカリフに仕えた。「ムスタアスィミー」という通り名は、この主君に由来する。
書は、イブン・バウワーブの弟子筋にあたる女性の書家シュフダに学んだとされる。ただしこの女性は1178年に90歳を過ぎて世を去っているため、直接に教わってはいない。ヤークートはイブン・バウワーブの筆跡を完璧に真似ることができたといい、自分の作品をイブン・バウワーブの真筆としてカリフの御前に差し出したところ、まったく気づかれなかったという逸話が残る。
1258年、フレグ率いるモンゴル軍がバグダードを包囲して入城した。ヤークートはこの出来事を生涯の半ばで経験している。どうしても完成させたかった制作途中の写本を持ってモスクのミナレットに避難し、モンゴル軍に市街が荒らされていくのを眼下に見ながら、作品を仕上げたと伝わる。書家としての名声が確立したのは、バグダードがイル・ハン朝の支配下に入ってからである。モンゴルの君主アバカの名を優美に表す書体のもとになって貨幣に刻まれたともいわれ、イル・ハン朝の君主ガイハトゥのもとでも引き続き仕えたとされる。
ヤークートは、イブン・ムクラとイブン・バウワーブから受け継いだ書の体系をさらに洗練させ、とりわけスルス体を優雅で美しいものに発展させた。軸を斜めに削った葦ペンの筆致を強調する技法によって、優美さの表現に新しい地平を開いたとされ、その書体はヤークート体と呼ばれる。多くの弟子を教え、アラブ人も非アラブ人も学んだ。なかでもアフマド・スフラワルディーとヤフヤー・スーフィーが名高い弟子とされる。13世紀後半には、書家たちの目標を意味する称号キブラトル・クッターブで呼ばれ、その流派は数世紀にわたってペルシア系やオスマン朝の書家が手本とした。クルアーン写本を364セット制作したとされるが、千回以上写したともいわれ、作品の帰属に問題があるため、数は誇張されているおそれもある。17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビーは、若いころ師から彼の真筆のクルアーン写本を渡されて修行した思い出を旅行記に綴っている。ヤークートは1298年(ヒジュラ暦697年)に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- スミレツ (1298年没)
- アルブレヒト2世 (ザクセン=ヴィッテンベルク公) (1298年没)
- ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィ (1298年没)
- ヤコブス・デ・ウォラギネ (1298年没)
- フィリップ・ダルトワ (1269-1298) (1298年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャアファル (803年没)
- カーディル (1031年没)
- ザーヒル (1226年没)
- ムスタクフィー (949年没)
- フナイン・イブン・イスハーク (870年代没)