HISTORICAL PERSON · 870年代没

フナイン・イブン・イスハーク

バグダードの学術機関『知恵の館』の主任翻訳官。古代ギリシアの医学書・哲学書をアラビア語に翻訳し、眼科学の体系書も著した。

生涯
870年代没
死亡地
イラク共和国(バグダード県 / バグダード)
出生地
イラク共和国(ヒーラ)
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

フナイン・イブン・イスハークは、九世紀のバグダードで活躍した翻訳家であり医学者である。808年ごろ、ユーフラテス川沿いのヒーラに生まれ、873年ごろに没した。没年を877年とする説もある。ネストリウス派のキリスト教徒で、ギリシア語、アラビア語、シリア語に通じていた。ラテン語の文献ではヨハンニティウスの名でも知られる。

父はネストリウス派の薬剤師で、フナイン自身も同派の助祭になったという。思春期にヒーラを離れてバグダードに出て、ユハンナ・イブン・マサワイヒのもとで医学を学んだ。ただ、質問があまりに多くて授業を妨げたため、師の家から追い出されたといわれる。その後、二年にわたる旅に出て、アレクサンドリアやビザンツ領を訪れ、古代ギリシア語を身につけて826年ごろにバグダードへ戻ったとされる。ここでガブリエル・バル・ボフティーショに見いだされ、その仲立ちでユハンナとも和解したという。17歳のころにはユハンナの指導のもとで、ギリシア語からシリア語とアラビア語への最初の翻訳を始め、その仕事は生涯続いた。

830年ごろ、カリフのマームーンが設けた「知恵の館」で、翻訳者たちを監督する役目を任された。ここでネストリウス派の知識人が集められ、古代の医学書や哲学書の翻訳が進められた。その中にはプラトンの『国家』、アリストテレスの『形而上学』、プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書などが含まれていた。翻訳にあたってはビザンツ帝国からも写本を買い集めて比較し、本文の吟味を通じて正確さに気を配った。当時知られていたギリシアの医学書のほとんどと、アリストテレスの著作の半分ほどの翻訳を指揮したともいわれ、「翻訳家たちの師」と呼ばれる。アラビア語の医学・科学用語の形成にも大きく寄与したとされる。

カリフのワースィク(在位842〜847年)は学者の集まりを催し、フナインに一種の医学百科の執筆を命じた。ムタワッキルの治世(847〜861年)には、カリフの首席侍医となった。しかしジュンディーシャープール出身の医師たちに敵視され、一時は鞭打たれて投獄された。のちに病んだカリフに呼び戻されて治療に成功し、名誉を回復して、敵対者たちは賠償を命じられた。書物を求めて何度も旅をし、ビザンツ帝国をもう一度訪れたほか、シリア、上メソポタミア、パレスチナにも足を運んだ。ダーウードとイスハークという二人の息子も医師となり、フナインは彼らのために書物を著した。医師としての倫理でも知られる。ムタワッキルが敵を除くため、多額の報酬と引き換えに毒薬の調合を求めたとき、フナインは、自分の学問は有益なものだけを扱い、宗教も職業も人を害することを許さないと述べて断ったという。カリフは彼を投獄し、処刑すると脅したが、それでも従わないため、ついには釈放し、その誠実さに多額の金で報いた。以後もフナインは侍医として仕えた。

著作は百ほどが伝わり、その約半数が現存する。多くはガレノスの要約や注釈である。『医学問答』は『ヨハンニティウスの入門』の名で、コンスタンティヌス・アフリカヌスによって中世にラテン語へ訳された。眼科学の『眼についての十論』も『デ・オクリス』として西欧に伝わり、眼の構造や病気、白内障の手術にまで踏み込んだ体系的な著作として知られる。哲学・宗教・アラビア語の文法や辞書編纂の方法に関する著作も残した。『ガレノス医学入門』もラテン語に訳され、中世ヨーロッパに影響を与えた。

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