伝記
ルートヴィヒ2世は、上バイエルン公でライン宮中伯を兼ねた諸侯で、「厳格公」と呼ばれる。1229年4月13日、バイエルン公兼ライン宮中伯オットー2世とアグネスの子としてハイデルベルクで生まれた。のちの神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の父にあたる。ホーエンシュタウフェン朝に従い、1246年にローマ王コンラート4世を助けてテューリンゲン方伯と戦った。1250年にはオーストリアで父に臣従を拒んだ家臣たちと戦い、エンス川流域やリンツ周辺の城をいくつも包囲したが、最後は金銭で一時的に従わせた。1253年11月29日に父が急死すると、弟ハインリヒ13世とともに遺領を継いだが、二人は仲違いし、1255年の復活祭のころに領土を分けた。下バイエルンは弟が、上バイエルンとライン宮中伯領は兄が治めた。この分割はヴィッテルスバッハ家を修復できないほど弱めたと評されている。
1256年1月、ルートヴィヒはブラバント公の娘である最初の妻マリーを、姦通の罪でドナウヴェルトで斬首した。のちに二人目の妻との娘に同じ名をつけたことから、後年になってマリーの無実を信じたともいわれる。同年10月までにライン都市同盟に加わった。大空位時代に入ると、姉の子でホーエンシュタウフェン家の継承者コンラディンの後見人となり、バイエルンの宮廷で育てた。だがローマ王の選挙では、コンラディンが当選しそうにないと見て、11月にコーンウォール伯リチャードの代表を迎え、1万2000マルクと、コンラディンの要求に反対しない約束と引き換えにリチャードを支持した。1257年にボヘミア王オタカル2世がバイエルンに攻め込むと、ライン宮中伯領から駆けつけ、弟とともに撃退した。レーゲンスブルクとの戦いは痛み分けに終わり、1259年の和約で自ら築いた城の解体に同意した。1260年にはグウォグフ公の娘アンナと再婚した。弟との不和は、1262年の仲裁でも解けなかった。
1263年4月、コンラディンは、自分が子なく死んだ場合の遺領をルートヴィヒに譲ると宣言した。1266年にシチリア王マンフレートが戦死すると、コンラディンはルートヴィヒの助言でシチリア遠征を決めたが、ルートヴィヒは同行したヴェローナで形勢の不利を悟り、引き返すよう勧めた。聞き入れられなかったため、遠征軍から離れ、コンラディンは敗死した。ルートヴィヒは遠征に莫大な援助をしており、領土を担保にしていたため、広大な領土を手に入れた。教皇クレメンス4世に破門されたが、1273年7月に解除された。
リチャードの死後、ルートヴィヒは自家のヴィッテルスバッハ家の人物を推そうとしたが、ケルン大司教とトリーア大司教の支持が得られなかった。1273年9月1日にマインツ大司教とハプスブルク伯ルドルフを選ぶことで合意し、ルドルフはローマ王に選ばれた。ルドルフは娘マティルデを嫁がせ、二人は戴冠式と同じ10月24日に結婚した。以降、ルートヴィヒは常にルドルフを支持した。1275年10月にルドルフがローザンヌで教皇グレゴリウス10世と会うと同行したが、約束した十字軍は実現しなかった。ライン宮中伯としてオタカル2世に出頭を命じ、クロスターノイブルクを占領してボヘミア軍の渡河を阻んだ。オタカルは1278年のマルヒフェルトの戦いで戦死したが、ルートヴィヒは間に合わなかった。1289年に選帝侯が7人と定まると、ライン宮中伯としてルートヴィヒも選ばれた。1294年2月2日、ハイデルベルクで没した。ライン宮中伯は長男ルドルフ1世が継ぎ、バイエルンは次男のルートヴィヒ4世と共同で治めた。
同じ年に亡くなった人物
- ドミトリー・アレクサンドロヴィチ (1294年没)
- ロジャー・ベーコン (1294年没)
- クビライ (1294年没)
- ジャン1世 (ブラバント公) (1294年没)
- ブルネット・ラティーニ (1294年)
同じ地域に関係する人物
- ユスティヌス・ケルナー (1862年没)
- ピエール・ブーレーズ (2016年没)
- ケーテ・クラウス (1970年没)
- エリッヒ・ポント (1957年没)
- フェオドラ・フォン・ザクセン=マイニンゲン (1890-1972) (1972年没)