伝記
セルウィウス・スルピキウス・ルフスは、紀元前1世紀初期・中期の共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前51年に執政官を務めた人物である。生年は紀元前106年または105年とされる。貴族のスルピキウス氏の出身だが、近い祖先は重要な政務官職についておらず、父は騎士階級だったため、キケロは彼を新人としている。ルフスとキケロはローマで同じような知的訓練を受け、ルフスは主に民法に力を注いだ。きっかけは、スカエウォラに法律への無知を指摘されたことだという。スッラがローマを奪還した後、ルフスもキケロも一時ローマを離れ、紀元前78年にはロードスでギリシアの修辞家に学んだ。帰国後、弁論術で二番になるより学問で一番になる道を選んだ。
政治家としての第一歩は財務官で、くじによりオスティアを担当した。紀元前65年に法務官となり、公金横領を裁く法廷を担当したが、属州総督の職は断った。前63年に執政官選挙に立候補したが、当選したのはムレナとシラヌスだった。ルフスはムレナを選挙違反で告訴し、カトらが検察側に立ったが、クラッスス、ホルテンシウスとキケロがムレナを弁護した。カティリナの動きでローマの状況が憂慮すべきものとなっていた時期で、キケロは演説でルフスに敬意を示しつつ、知的業績はムレナを執政官とした場合の軍事的利益に及ばないとし、皮肉さえ交えた。結果、ムレナは無罪となった。この敗北後、ルフスは長く立候補しなかった。前52年には臨時摂政として民会を開き、ポンペイウスを執政官に選出した。
紀元前51年、ついにルフスは執政官となった。どちらの有力者が当選を支援したのかについては、ポンペイウスだとする見方と、カトの当選を阻むためカエサルが本意に反して支持したとする見方がある。この任期中に政治抗争は激化し、ルフスは年の初めから内戦の可能性を元老院で警告したが、誰も耳を貸さなかった。同僚のマルケッルスはカエサルを狙った法案を出し、ルフスは反対したが元老院は承認した。護民官の反対で効力は生じなかった。ルフスはパルティアの脅威を過小評価し、キリキアとシリアへの援軍のための徴兵にも反対した。
紀元前49年1月にカエサルが進軍すると、ルフスはローマを離れたが、ポンペイウスと行動を共にせず、カンパニアにとどまって平和的解決を望んだ。カエサルと敵対しないよう、息子をカエサル軍に従軍させた。のちにローマに戻ってカエサル派を支持し、キケロにも帰還を説得したが成功せず、カエサルにはポンペイウスとの和平を促した。前46年初め、カエサルは彼を味方につけ、ルフスはおそらく前執政官権限でアカエア属州の総督となり、ポンペイウス派の避難者に可能な限りの寛大さを示した。前45年秋にローマへ戻った。カエサルの死後、前44年5月にはアントニウスとの対立が内戦になることを恐れて再びローマを去ったが、年末には戻った。
前43年1月1日の会議で、ルフスは年齢制限を無視してオクタウィアヌスが政務官職につくことを認めるよう提案した。またアントニウスとデキムス・ブルトゥスの戦争を避けるため、アントニウスを説得する特使の一人に選ばれ、健康上の問題がありながら受け入れた。しかし1月中頃、ムティナ近くのアントニウスの陣営に着く前に死去した。2月4日の元老院では、国費で墓を建て、像をロストラの前に置くことが決まり、キケロはこの問題で『第九ピリッピカ』を演説した。像と墓はのちにエスクイリヌスの丘に建てられた。ルフスは生涯を法律学に捧げ、同時代の人々から法律史上で最も著名な専門家とみなされた。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前44年の補充執政官) (紀元前43年没)
- マルクス・トゥッリウス・キケロ (紀元前43年没)
- ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌス (紀元前43年没)
- カルプルニア (紀元前43)
- アティア・バルバ・カエソニア (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- タケ・ヨネスク (1922年没)
- エドゥアルド・デ・フィリッポ (1984年没)
- マッシモ・ジロッティ (2003年没)
- Nilus the Younger (1004年没)
- ジャン=フランソワ・ド・トロワ (1752年没)