伝記
プブリウス・コルネリウス・ドラベッラは、紀元前1世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前44年に補充執政官を務めた人物である。紀元前69年ごろの生まれとされ、貴族のコルネリウス氏の出身である。若い頃は評判が悪く、おそらく金のために10歳年上の女性と結婚し、殺人罪で2度裁判にかけられた。どちらもキケロが弁護したが、詳細は不明である。「黄金の若者」の一人として、マルクス・アントニウスらと友人だった。紀元前51年末には、世間の注目を集めようと、前キリキア総督アッピウス・クラウディウス・プルケルを「ローマ人の威厳を傷つけた」として告訴した。そのころ、後任のキリキア総督キケロは、一人娘トゥリアがドラベッラと婚約したことを知った。キケロは相手が若すぎ評判も悪いとみており、ドラベッラは持参金目当ての可能性が大きかった。二人の結婚式は前50年5月に行われた。
紀元前49年にカエサルとポンペイウスの内戦が始まると、ドラベッラは1月22日にはカエサル支持を公にしており、最初に味方した一人だった。義父キケロはポンペイウス側についたが、ドラベッラは何度も手紙を書いてカエサルとの和解を促した。カエサルからアドリア海を見張る艦隊の一つを任されたが、クリクタ島沖の海戦で敗れ、イタリアへ逃れた。その後はファルサルスの戦いにも参加した。ローマに戻ると、護民官に立候補するため平民系の氏族に養子に入り、前48年12月10日に就任した。翌年初め、賃貸料の値下げと借金の清算を含む改革計画を打ち出したが、同僚フィデスが反対し、支持者どうしが街頭で衝突した。アントニウスは軍隊を送って鎮圧し、800人を殺害した。
ローマに戻ったカエサルはドラベッラを許し、手元に置いた。ドラベッラはタプススの戦いなどに従い、ヒスパニアで負傷した。前45年夏にイタリアへ戻り、それまで借金ばかりだったのに多くの土地を所有するようになったのは、カエサルからの報酬だったと思われる。最大の報酬は前44年の補充執政官の地位で、カエサルがパルティアへ出征した後、その後任になるはずだった。アントニウスはこれに反対していたが、3月15日、カエサルはこの問題を議論するはずだった会議の冒頭に殺害された。
意外にも、ドラベッラは暗殺者側を支持し、必要な手続きが終わらないまま執政官の服を着た。翌日にはブルトゥスやカッシウスと、アントニウスやレピドゥスとの交渉を仲介した。その後アントニウスと再び親密になった。カエサルの火葬地に庶民が建てた柱の破壊にも加わったため、キケロは彼が共和政支持者に加わったと考え、称賛した。しかし同月中に関係は再び悪化し、ドラベッラはトゥリアと離婚して持参金の返還を拒み、アントニウスと歩調を合わせるようになった。アントニウスは元老院にドラベッラをシリア総督に任命させた。ドラベッラはキケロを副官に任命したが、キケロはシリアに行かなかった。
紀元前44年秋、カッシウスがシリアを狙っていることがわかり、ドラベッラは任地へ向かった。途中、アルゴスで10万セステルティウスを払って、持ち主を破滅させる運命を持つという名馬を購入したと伝えられる。アシア属州では総督トレボニウスに都市への入城を拒まれたが、夜間にスミルナを奇襲して占領し、トレボニウスを殺害して首を晒した。前43年1月中旬ごろのことで、ローマの元老院はドラベッラを敵と宣言した。兵士から「インペラトル」と呼ばれたドラベッラは、アシアで軍資金や兵士、船を集め、ロードスやユダヤも彼を支持した。しかしその後、シリアのラオディケイアでカッシウスに敗れ、戦死した。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- ガイウス・トレボニウス (紀元前43年没)
- ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌス (紀元前43年没)
- ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前73年の執政官) (紀元前 43年(推定))
- アティア・バルバ・カエソニア (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- アンムラピ (紀元前1200)
- ラオディケアのアナトリオス (280年没)