伝記
マルクス・トゥッリウス・キケロは、紀元前106年1月3日に生まれ、紀元前43年12月7日に没した共和政ローマ末期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者である。名はキケローとも表記され、英語読みではシセロという。カティリナの陰謀から国家を救うなど活躍し、加わることを熱望していたオプティマテス寄りの論陣を張って、カエサルやオクタウィアヌスらを食い止めようと試みたが、叶わなかった。
アルピヌムの出身で、祖先に顕職者を持たない「ノウス・ホモ」としては異例の出世を遂げた。父の代から騎士の身分を得ており、10歳のころ家族とローマへ移り、当代一の雄弁家たちの従者として学ぶ機会を得た。家名のキケロは「ヒヨコマメ」に由来し、祖先の鼻にイボがあったからだという。若いころ友人から無名の家名を避けるよう勧められると、「私自身の手で、キケロ家をスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったと伝わる。負けず嫌いで、文筆や哲学は余興にすぎず、政治に関わって名を揚げることこそが本望だったとされる。17歳で軍務に就いたが、兵士には全く向かず、陣地で留守番をさせられたという。従軍を終えるとすぐ弁論の勉強を再開し、亡命してきた新アカデメイア派の学長フィロンから徹底的な懐疑主義を学び、21歳のころにはクセノポンの『家政論』をラテン語に訳したと語っている。最初の著作は弁論術を扱った『構想論』である。
紀元前81年、25歳で弁護士として歩み始めた。デビュー戦の民事訴訟では、有力者を後ろ盾に、雄弁家ホルテンシウスを代理人に立てた相手側に、果敢に立ち向かった。紀元前80年には、父殺しの罪で訴追された青年ロスキウスを弁護した。キケロは、スッラの側近が父の資産を安く手に入れるため、親族と組んで彼を陥れたのだと主張し、無罪を勝ち取ってローマの上流階級の信頼を得た。この弁論には、のちに愛用する「フマニタス(人間性)」の語が初めて現れる。紀元前79年に資産家の娘テレンティアと結婚したが、体を壊して2年ほど休養し、弟クィントゥスや友人アッティクスらとギリシアへ留学して、アテナイやロドスなどで学んだ。この間に娘トゥッリアが生まれた。
紀元前77年に帰国して弁護活動を再開し、紀元前75年には財務官としてシキリアで働き、打ち捨てられていたアルキメデスの墓を発見した。紀元前70年、シキリア総督ウェッレスの強要恐喝罪を告発した。ウェッレスの搾取は度を超え、1年目は自身の蓄財、2年目は弁護士費用、3年目は審判人の買収のためと揶揄されたほどで、シキリアの代表がキケロに告発を託した。このときの弁論は、当時の属州政治の内実を知る貴重な資料となっている。
哲学者としては、プラトンの教えに従う新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術や修辞学を評価し、自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べた。ラテン語でギリシア哲学を紹介し、『弁論家について』『トピカ』などを著して、のちのボエティウスによる概念の確立にも貢献した。著作『義務について』はラテン語の教科書として広まり、ルネサンス期にペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントらに影響を与えた。イタリア語の「案内人」を意味する「チチェローネ」も彼の名に由来する。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- セルウィウス・スルピキウス・ルフス (紀元前43年没)
- ガイウス・トレボニウス (紀元前43年没)
- ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前73年の執政官) (紀元前 43年(推定))
- デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ (1503年没)
- ジャコモ・マンズー (1991年没)
- アントニオ・ピエトランジェリ (1968年没)
- ルキウス・ムナティウス・プランクス (紀元前15年没)
- ゴリアルダ・サピエンツァ (1996年没)