伝記
プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスは、紀元前134年頃に生まれ、紀元前44年に没した共和政ローマの政治家・軍人である。平民(プレブス)出身で、紀元前79年に執政官、紀元前55年に監察官を務めた。父は紀元前115年前後に法務官としてマケドニア属州総督を務めたガイウス・セルウィリウス・ウァティアで、母方の祖父はクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスである。
史料に初めて現れるのは紀元前100年、護民官サトゥルニヌスの一派の反乱の際で、キケロが挙げるサンクス神殿で武器を取った人々の中に名がある。紀元前98年頃に護民官を務め、遅くとも紀元前90年には法務官に就いたはずで、属州総督を務めたのち、紀元前88年にローマで凱旋式を行った。勝利の地はヒスパニアと考えられている。紀元前87年の執政官選挙に立候補し、同盟市戦争で活躍したスッラの支援を受けたが当選できなかった。マリウス派がローマを占領すると、多くの門閥派とともにギリシアへ逃れてスッラと合流した。紀元前83年にスッラがイタリアに上陸して内戦が始まると、副官としてクルシウムで戦い、敵軍を破った。以後スッラ派で重要な地位を占めたが、スッラの恐怖政策には加担しなかった。
紀元前79年に執政官となり、翌年から前執政官としてキリキア属州の総督を務め、沿岸を支配する海賊の討伐に当たった。紀元前78年春にタレントゥムから出航し、部下にはまだ経歴の浅いガイウス・ユリウス・カエサルとティトゥス・ラビエヌスがいた。艦隊の編成を終えた紀元前77年から作戦を始め、海賊の艦隊を破り、リュキアのファセリスを攻めて砦も破壊した。首領ニコンは捕らえられ、一度脱走したが再び捕らえられた。さらにオロアンダなど三都市を占領し、ローマ領は西へ広がった。次いで内陸でイサウリ族を討ち、古イサウリアでは大損害を受けて一度撃退されたが、川をせき止めて水を断ち、数日の包囲の末に陥落させた。住民は奴隷に売られ、都市は焼かれた。新イサウリアも要求を拒んだため攻め落とした。紀元前74年にローマへ戻って二度目の凱旋式を行い、この勝利で「イサウリクス」の添え名を得た。
帰還時すでに60歳前後であったが、執政官の経歴と戦勝により尊敬を集め、元老院に大きな影響力を持った。紀元前70年にはウェッレスの裁判で裁判官を務め、紀元前66年には、ポンペイウスを第三次ミトリダテス戦争の総司令官とする提案を支持した。紀元前63年12月3日、カティリナ一派の処分を元老院で議論した際には、最初に演説した一人で、最も厳しい処置を求めた。同年、最高神祇官の選挙に立候補したが、カトゥルスとともに合わせて5%しか得票できず、圧勝したのはカエサルだった。紀元前57年にはキケロの追放解除を主張し、クロディウスが邸宅の跡に立てた女神像をめぐる問題でも、神祇官は全員一致でキケロを支持した。紀元前55年に監察官となり、洪水後のテヴェレ川の治水を行ったが、清めの儀式は実施されなかった。
カエサルがガリアで戦っていたとき、これを支援していた。内戦では息子がカエサルの幕僚の一人となったが、本人はローマで平穏に暮らした。カエサルが暗殺され、息子がアシア属州から戻った後の紀元前44年夏に、90歳前後で死去した。人格は厳格で、有能な将軍であり、公正な総督だったと評価され、カエサルやラビエヌスの教師役も果たしたとされる。ただしキリキアの征服者という評判は実際以上のもので、得たのは沿岸の細長い地域とイサウリアにすぎず、海賊はすぐに復活して、さらに大規模に略奪を行った。
同じ年に亡くなった人物
- クローディア (紀元前44)
- Publius Attius Varus (紀元前44)
- プトレマイオス14世 (紀元前44年没)
- ガイウス・ユリウス・カエサル (紀元前44年没)
- トゥッリア (紀元前44)
同じ地域に関係する人物
- エウメネス3世 (紀元前129年没)
- インノケンティウス2世 (ローマ教皇) (1143年没)
- ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌス (205年没)
- クレメンス11世 (ローマ教皇) (1721年没)
- ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) (紀元前70年代没)