伝記
ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌスは、2世紀後半から205年にかけて活動したローマの政治家で、皇帝セプティミウス・セウェルスの近衛隊長官を務めた人物である。生年は150年ごろとされ、没年は205年1月22日である。出身は北アフリカのレプキス・マグナ(現在のリビア)で、セウェルスとは同郷であり、母方の親戚にあたる旧友でもあった。父も同名で、その姉妹フルウィア・ピアはセウェルスの父に嫁いでいたとされる。
経歴の初期は、死後に記録抹消の処分を受けたため、はっきりしない部分が多い。アフリカで属州の財務官職にあった際、のちの皇帝ペルティナクスに汚職で有罪とされたと、カッシウス・ディオやヘロディアヌスは伝えるという。193年から195年または197年ごろまでローマの消防警備隊の長官を務め、193年にセウェルスが権力を握ると、ライバルであるペスケンニウス・ニゲルの息子たちを捕らえるため東方へ送られたともいわれる。197年ごろ(196年とする説もある)に近衛隊長官となり、セウェルスの遠征にも同行した。同僚の長官クィントゥス・アエミリウス・サトゥルニヌスを死なせて、単独の長官の座を保ったとする伝えもある。
皇帝の信任は厚く、執政官の記章、元老院の議席、そして203年の執政官職が与えられた。このとき同僚の執政官は、皇帝の次男プブリウス・セプティミウス・ゲタであり、貨幣には二人の肖像が並んで刻まれた。同じ年には神官団にも加えられ、セウェルスの故郷レプキス・マグナへの旅にも同行した。各地に彼の彫像が建てられ、碑文でも皇帝と並んで名が記されたという。ただし『ヒストリア・アウグスタ』によれば、セウェルスは彼が自分の像を皇帝の親族の像の中に置いたことに怒り、公敵と宣告して像を撤去させたが、のちに和解し、凱旋式にも加えたとされる。娘の婚姻により、彼自身は元老院に入り、一族は貴族の家柄に加えられたという。皇帝の信任はそれほど厚かった。莫大な富と権勢を得て、皇帝に次ぐ第二の地位にあったとされる。202年には娘フルウィア・プラウティラを、皇帝の長男で共同皇帝のカラカラに嫁がせた。婚礼では娘に百人の宦官を仕えさせるため、自由身分のローマ人男性百人を去勢させたという。反対者は暗殺されるか処刑されたともいわれる。
しかし、権力の大きさは皇帝の妃ユリア・ドムナとカラカラの警戒を招いた。プラウティアヌスは彼女を失脚させようと、その従者や友人を捕らえて拷問し、不利な証言を引き出そうとしたが、成功しなかった。結婚を強いられたカラカラは妻とその父を憎み、単独の皇帝になれば殺すと脅した。これを知ったプラウティアヌスは、セウェルスの一家を倒す企てを立てたとされる。
企ては露見した。実行を命じられた護民官サトゥルニヌスが、命令を書面で求めたため、それが動かぬ証拠となった。プラウティアヌスは宮殿に召喚されて弁明したが、疑いを晴らせず有罪とされ、205年1月22日、その場でカラカラの部下に殺された。財産は没収されて特別の管理官のもとに置かれ、名は公共の記念物から削り取られた。同名の息子と娘、孫娘はシチリア(リパリ島とする伝えもある)へ流され、211年末から212年初めにカラカラの命で絞殺されたという。妻はホルテンシアで、二人の子をもうけていた。子孫の系譜は、のちの4世紀の高官ウルカキウス・ルフィヌスらにまで続いたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・ペドゥカエウス・プラウティウス・クィンティルス (205年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエトロ・ベルニーニ (1629年没)
- エンニオ・モリコーネ (2020年没)
- レオポルド・トリエステ (2003年没)
- ベネディクトゥス2世 (ローマ教皇) (685年没)
- イルデブランド・ピツェッティ (1968年没)