伝記
ファフルッディーン・イブラーヒーム・イラーキーは、イランの神秘主義詩人である。生年は1211年とも1213年か1214年ともいわれ、イラン中西部の古都ハマダーンの近くで生まれた。学問と信仰を重んじる家の出身で、父はブズルグミフルという人物とされる。6歳でコーランを暗記したと伝えられ、その後イスラーム諸学を学んで、17歳のころにはハマダーンの学院で教えていた。
コーランの解釈を講じていた若いイラーキーの講義に、あるとき遊行の托鉢僧カランダルの一団が顔を見せた。彼らは教えることをやめて自分たちとともに霊的な知を求める旅に出るよう誘い、イラーキーはそれに従った。一行にいた少年の美しさに魅せられ、郷里を捨てて加わったとする話もあり、これが神秘主義(スーフィズム)に進むきっかけだといわれる。一行はインドのデリー・スルタン朝領のムルターンにたどり着いた。イラーキーはそこでスフラワルディー教団の指導者バハーウッディーン・ザカリーヤーに出会い、インド各地をさまよった二年後に弟子となった。以後25年にわたって師事し、師の娘と結婚して、カビールッディーンという息子をもうけた。
ザカリーヤーは1262年ごろに没し、イラーキーはいったん後継者となった。しかし師の息子サドルッディーン・アーリフと一部の弟子たちの妬みを受けてムルターンを去らなければならなくなり、海路でメッカへ向かった。巡礼の途中、オマーンのスルタンが彼を呼び戻そうとしたが、うまくいかなかったという。巡礼を終えたのち、1267年か1268年にアナトリアのルーム・セルジューク朝の都コンヤに入り、イブン・アラビーの直弟子サドルッディーン・クーナウィーの講義を受けた。この時期に、のちに主著となる『閃光』を書き始めた。『叡智の台座』をめぐるクーナウィーの議論に衝撃を受けて書いたものともいわれ、クーナウィーはこの本を高く評価した。またルーミーが開く聖なる音楽の集いにも通い、ルーミーの葬儀にも居合わせたとされる。
コンヤで保護者となったのは、モンゴル支配下のイル・ハン国の行政官ムイーヌッディーン・パルヴァーナである。彼はイラーキーに帰依し、ドゥカトに修道場を建てさせた。イラーキーはまた、1262年から1284年までペルシアのモンゴル諸汗に宰相として仕えたシャムスッディーン・ジュヴァイニーとも知り合った。しかしパルヴァーナは1277年に失脚して処刑され、イラーキーは国家の財産を隠したと疑われてコンヤから逃れた。シノプにしばらく滞在したのち、エジプトのカイロに移ると、マムルーク朝から厚遇を受けた。その後はシリアのダマスカスに身を寄せ、インドに残してきた息子カビールッディーンと再会したが、まもなく病にかかって、1289年に没した。遺体はイブン・アラビーの墓のそばに葬られた。
作品には、頌詩、抒情詩、四行詩、叙事詩など約5,900句をおさめる『イラーキー詩集』、神秘主義の思想を述べた散文『閃光』、叙事詩『熱愛者の書』がある。詩集の大半は情熱的なガザル(抒情詩)で占められ、名声のもとになった。なかでもイブン・アラビーの思想につながる宇宙生成の考え方や、愛を主題にした作品が高く評価された。28の部分からなる『閃光』は愛の理論を説くが内容は難解で、15世紀末にティムール朝の詩人ジャーミーが注釈書を著した。
同じ年に亡くなった人物
- Germanus III of Costantinople (1289年没)
- ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ (1289年没)
- デメトレ2世 (ジョージア王) (1289年)
- ルドラマ・ デーヴィ (1289年)
- ジョヴァンニ・ダンドロ (1289年)
同じ地域に関係する人物
- サラーフッディーン (1193年没)
- Khalid-i Baghdadi (1826年没)
- イブン・シャーティル (1370年代没)
- アル=アーディル (1218年没)
- ワリード・アル=ムアッリム (2020年没)