伝記
ゲルマノス3世は、皇帝ミカエル8世の時代のビザンツ帝国の聖職者で、1265年から1266年までコンスタンティノープル総主教を務めた人物である。歴史家ゲオルギオス・パキュメレスによれば、先祖はラズ人で、ガブラス家に属していたといい、敵対する者たちは彼を、ペルシア風の侮辱的な名であるラズ・マルクーツァと呼ぶことがあった。生年は伝わらない。1235年までは、アンティオキア近くの黒山の修道士だったが、そこからエルサレムへ行き、さらにニカイアへ移った。パレスチナではエルサレム総主教アタナシオス2世のもとで学び、その影響で教会の合同という考えを支持するようになったとされる。ニカイアでは総主教ゲルマノス2世が師となった。
ニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリスの治世(1254年から1258年)の後半には、ラスカリス家の政策に反対する立場に回った。1259年の初めにアドリアノープルの府主教となり、1265年までその職にあった。同じ1259年の初め、ミカエル8世パレオロゴスが帝位を奪うのを支持している。1265年にアルセニオス・アウトレイアノス総主教が退くと、皇帝の意向を受けた教会会議によって総主教座に選ばれた。1265年5月のことである。しかし高位聖職者の幅広い支持は得られず、アルセニオスがミカエル8世に科していた破門を解く決断はできなかった。そのため、選ばれて1年後の1266年9月14日、皇帝は自分の聴罪司祭で、のちに総主教となるヨセフを通じて、ゲルマノスが自ら退くよう仕向けた。ゲルマノスはコンスタンティノープルのマンガナ修道院に入ったとも、アドリアノープルの職務に戻ったともいわれる。
退いたあとも、皇帝との関係は変わらなかった。ミカエル8世の聴罪司祭、相談役となり、いくつもの任務を果たした。1272年には、大ドゥクスのミカエル・ラスカリスとともにビザンツの使節団を率いてハンガリー王国へ赴き、皇帝の子で後継者のアンドロニコス2世の花嫁となるハンガリーの王女アンナをコンスタンティノープルへ連れてきた。1274年3月、教会合同に賛成していたゲルマノスは、ミカエル8世によって、大ロゴテテスのゲオルギオス・アクロポリテス、ニカイア府主教テオファネスとともにローマへ送られ、カトリック教会と正教会の合同を結ぶための第2リヨン公会議の準備について交渉した。教皇グレゴリウス10世との会談で、彼らは皇帝の名で、聖地解放への協力を約束した。同年7月6日、ゲルマノスはカトリックの信仰宣言に署名し、秋にコンスタンティノープルへ戻った。リヨン公会議には皇帝の代表として出席したともいわれる。
ゲルマノスは学識で知られ、学問を保護し、新しい学校を開いてビザンツの教育の水準を上げようとした。禁欲的な修道者よりも教養のある人を好んだ。弁論家マヌエル・ホロボロスが皇帝のとがめを受けていたとき、それを解いてもらって教師として迎え、「弁論家の中の弁論家」の称号に引き上げたのはその一例である。人柄は私欲がなく、素朴で、開けっぴろげだったと伝えられる。没年は、1278年11月までともいわれるが、1289年とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ (1289年没)
- デメトレ2世 (ジョージア王) (1289年)
- ジョヴァンニ・ダンドロ (1289年)
- レヴォン3世 (1289年没)
- ファフルッディーン・イラーキー (1289年没)
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