伝記
アル=アーディルは、アイユーブ朝の第4代スルタンで、サラーフッディーン(サラディン)の弟である。本名はサイフッディーン・アブー・バクル・ムハンマド・イブン・アイユーブといい、「アーディル」はアラビア語で「公正な者」を意味する。ヨーロッパでは兄が「サラディン」と呼ばれたのに対し、彼は「サファディン」と呼ばれた。1145年に生まれた。そのころ父アイユーブはザンギーからバールベックの統治を任されており、バールベックで生まれた可能性が高い。兄サラーフッディーンとともに叔父シールクーフに従い、1168年の第3次エジプト遠征に加わり、そのままエジプトにとどまって、兄の代わりに統治した。1174年に、ファーティマ朝の残党が上エジプトで反乱を起こすと、これを鎮圧した。1177年、サラーフッディーンが新しい艦隊の建造を命じると、アーディルは新設の艦隊庁の長官に任じられ、80隻の艦隊をそろえた。
1183年にはエジプト軍を率いて、カラクの攻撃に合流した。アレッポの統治権を望んで、兄が認めたため、アレッポへ移ったが、エジプトで問題が起き、すぐカイロに戻った。同じ1183年6月、サラーフッディーンはアレッポを征服し、はじめは愛する息子ザーヒルを領主としたが、6か月後にはアーディルに治めさせた。しかし3年後の1186年には、またザーヒルにアレッポを与え、アーディルをエジプトに置いた。この混乱は、兄の死後9年にわたるアーディルとザーヒルの対立の原因となった。1187年のヒッティーンの戦いの後は兄と合流して戦った。第3回十字軍ではアッコの攻防に加わり、最後は和平交渉を受け持って、リチャード1世との和約を実現させた。個人的にもリチャードと親しく、その妹ジョーンを妻に迎えるよう提案された。サラーフッディーンも同意を示したが、ジョーン本人が激怒して反対し、実現しなかった。
兄の死後、遺児たちの権力争いが始まると、アーディルは巧みに介入した。アーディルはダマスカスのアフダルと組み、シリアをうかがうアズィーズに対抗した。アズィーズの二度の攻撃を退けたのち、エジプトに乗り込んでアズィーズを抱き込み、反アフダルに転じて、ダマスカスをアフダルから無血で奪い、アフダルをサルハドへ追放した。1198年にアズィーズが落馬事故で死ぬと、エジプトの武将たちの要請で、アフダルがサルハドからエジプトへ乗り込み、アズィーズの子マンスールの後見人として実権を握った。アフダルはアレッポのザーヒルと結んで、アーディルが確保するダマスカスの攻撃を企てた。アーディルは、戦っていたマールディーンの包囲を息子カーミルに任せ、すぐに戻った。アフダルの攻撃は失敗し、アーディルはその機にエジプトへ侵攻して、アフダルを破った。1200年、エジプトとダマスカスを押さえてスルタンに即位し、アフダルは再び地方の都市を与えられて追放された。
1201年には、ザーヒルがモスルのザンギー朝君主と組んで、シリアのアーディル領を攻めようとした。翌1202年、アーディルのハマー攻撃で、ようやくザーヒルが和議に応じ、アイユーブ朝は兄の死後およそ9年ぶりに安定した。アーディルは、ザンギー朝やアルメニア王国、ルーム・セルジューク朝に対抗するため、十字軍国家には比較的融和的で、3度の休戦協定を結び、守った。1218年、第5回十字軍の侵攻で平和は破られ、アーディルは心労で衰弱し、まもなく74歳で死んだ。生前に息子たちに領地を分け、スルタン位とエジプトを長男のカーミルが、ダマスカスをムアッザムが、ジャズィーラなどの北方をアシュラフが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ティボー6世 (ブロワ伯) (1218年没)
- ロスチスラフ2世 (1218年没)
- クチュルク (1218年没)
- ユーグ1世 (キプロス王) (1218年没)
- ロベール2世 (ドルー伯) (1218年没)
同じ地域に関係する人物
- ダーウド・ラージハ (2012年没)
- Ali Bey al-Abbasi (1818年没)
- ワリード・アル=ムアッリム (2020年没)
- モハンマド・レザ・ザヘディ (2024年没)
- ターリク・イブン・ズィヤード (720年没)