伝記
フィリップ3世は、1245年にポワシーで生まれ、1285年10月5日に没したフランス王国カペー朝第10代の国王で、在位は1270年から1285年までである。聖王ルイ9世と王妃マルグリット・ド・プロヴァンスの次男で、大胆王と呼ばれた。次男だったため当初は王位を継ぐ立場になかったが、1260年に兄ルイが亡くなり、王太子となった。母から30歳まで自分の後見に従うよう誓わされたが、この誓いは1263年に教皇ウルバヌス4世によって解かれた。以後は父の寵臣だったピエール・ド・ラ・ブロースが助言役となった。父は王の第一の務めは正義であるという考えを説いた『教訓』を彼に書き与えたという。
1262年にアラゴン王ハイメ1世の娘イザベルと結婚し、1267年に父から騎士に叙された。1270年、オルレアン伯として父とともに第8回十字軍に加わってチュニスへ渡った。カルタゴを占領した後、軍に赤痢が流行し、弟のジャン・トリスタンに続いて、8月25日には父王も没した。フィリップは25歳で、自らも赤痢を患いながらチュニスで王と宣言された。叔父のシャルル・ダンジューがチュニスの君主と交渉し、同年11月に和約が結ばれた。帰途にはシチリアでナバラ王テオバルド2世が没し、翌年2月には妃イザベルが、身ごもったまま落馬して亡くなった。彼は1271年5月にパリへ戻り、8月にランスで戴冠した。
治世の初めは、父の内政の多くを引き継いだ。領主同士の私戦を禁じる父の王令を強め、1274年にも自らの王令を出した。ユダヤ人に対する父の政策も踏襲し、標章の着用を再び命じ、1283年には礼拝所と墓地の新築・修繕を禁じている。1271年に叔父のトゥールーズ伯兼ポワチエ伯アルフォンスが跡継ぎなく没すると、その所領を王領に併合した。イングランド王エドワード1世が権利を主張したが、若干の領土の割譲で和解した。教皇の主張により、アヴィニョン周辺のヴネッサンは教皇に譲らなければならなかったが、その他の領土は王領に組み込まれた。1279年のアミアン条約では、アジュネがイングランドに返された。オルレアン条約ではナバラ王国へのフランスの影響力を広げ、弟ピエールがシチリアの晩祷事件をめぐる戦争で没すると、アランソン伯領を王領に戻した。1272年にはフォワ伯が反乱を起こしたが、王は軍を率いて出陣し、伯を降伏させた。1274年にはブラバント公アンリ3世の娘マリーと再婚し、先妻との間の四人の息子に加え、一男二女をもうけた。息子のうち、フィリップ4世が王位を継ぎ、シャルルはヴァロワ家の祖に、ルイはエヴルー家の祖となった。
勇猛だが、単純でだまされやすいとも評された。初めは低い身分の出のピエール・ド・ラ・ブロースを寵愛して臣下の反感を買い、のちには野心家の叔父シャルルの操り人形といわれた。1282年にシチリアの晩祷事件で叔父がシチリアを失うと、フィリップはこれを援助してアラゴン王国と敵対した。1285年、シャルルを支持する教皇マルティヌス4世がアラゴン王ペドロ3世を破門し、その王位をフィリップ3世に与えたため、彼はアラゴンに侵攻した。当初は成功したものの、軍に病が広がり、撤退を余儀なくされた。その撤退の途上、ペルピニャンで赤痢のため40歳で世を去った。この年には、叔父シャルルも、ペドロ3世も、マルティヌス4世も亡くなっている。
同じ年に亡くなった人物
- フィリッポ1世・ディ・サヴォイア (1285年没)
- イクノ・アムラク (1285年没)
- Philip Benizi de Damiani (1285年)
- ヨハン1世 (ザクセン=ラウエンブルク公) (1285年没)
- ペドロ3世 (アラゴン王) (1285年没)
同じ地域に関係する人物
- ララ・ファン・ライフェン (2020年没)
- モーリス・バルデーシュ (1998年没)
- Andre Stil (2004年没)
- コンスタンス1世 (350年没)
- ウリバ (1046年没)