伝記
アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーは、1226年に生まれ、1283年に没した、モンゴル帝国のイルハン朝に仕えた政治家であり歴史家である。歴史書『世界征服者の歴史』の著者として知られる。ジュワイニーと音写されることもあり、同じく政治家として活躍した兄弟のシャムスッディーン・ジュヴァイニーとは区別する必要がある。
バハーウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニーの子として、ホラーサーン州のジュワイン地区に生まれた。父はモンゴル帝国のイラン総督府で財務長官を務めていた。20歳にも満たないころに父の役所に入り、以後、イラン総督アルグン・アカのもとで20年間、ペルシアの財務行政に従事した。1252年には父とともにアルグン・アカのモンゴリア出張に随行し、皇帝モンケ・カアンに朝貢した。このときアルグン・アカはイラン総督の地位を、バハーウッディーンは財務長官の地位を追認された。帰国後の1253年に父が60歳で他界したため、アラーウッディーンが代わって財務長官に任命された。モンゴリアへの出張中、彼はモンケ・カアンの大功業の思い出を後世に伝えようと『世界征服者の歴史』の構想を思いつき、1260年にこれを完成させた。
1256年1月、モンケ・カアンは大規模な西アジア遠征を企て、総司令官フレグをペルシアへ派遣した。同じ1256年、フレグはニザール派の征伐に向かい、アラーウッディーンも従軍した。9月に帰順を催促したのに教主ルクヌッディーン・フールシャーが応じなかったため、フレグは居城を包囲して11月に攻撃を始めた。フレグは彼に降伏条件書を書かせてニザール派の教主ルクヌッディーン・フールシャーに送り、12月20日にアラムート城塞が開城した。このとき彼は、図書館に所蔵されていたクルアーンの写本や貴重な書物、天文観測器などを手に入れるよう勧めた。1257年春には、アルグン・アカが政務の報告のためモンケ・カアンのもとへ出発するにあたり、自分の代理人として子のケレイ・マリク、書記のアフマド、そしてアラーウッディーンを、フレグのもとに残していった。フレグは続いてアッバース朝の根絶に取りかかり、バグダードへ進軍したが、その軍にもアラーウッディーンは加わっていた。
1260年にフレグがイルハン朝を建国し、1264年には占領地の統治が始まった。宰相にはシャムスッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニーが任じられ、その弟であるアラーウッディーンはバグダードの長官に任命された。1265年にアバカ・ハンが即位すると、バグダードとファールスはスウンジャクの管轄となり、アラーウッディーンはその副官に任じられた。
しかし1280年、マジュド・アル=ムルクが行政長官に任命されると、彼の謀略に苦しめられた。1281年7月、アラーウッディーンはバグダードからアバカのもとへ入京して黄金を献上したが、マジュド・アル=ムルクは、彼が不正に黄金を隠し持っていると訴えた。アラーウッディーンは弁明してバグダードへ戻されたが、9月にはさらに滞納の告発を受けた。審理ではかかわる人物がすべて尋問を受け、建てた建造物や寺院も調べられたが、何も見つからなかった。それでも枷をつけられ、黄金300トゥメンを支払うことで死刑は免れた。1282年にアバカが没しテグデルが即位すると、投獄中のアラーウッディーンは、マジュド・アル=ムルクとともに宮廷へ呼び出された。
同じ年に亡くなった人物
- ブランシュ・ド・ナヴァール (1226-1283) (1283年没)
- 文天祥 (1283年没)
- カルマ・パクシ (1283年没)
- マーガレット・オブ・スコットランド (ノルウェー王妃) (1283年没)
- ダフィズ・アプ・グリフィズ (1283年)