伝記
文天祥は、南宋の末期に生きた軍人・政治家である。1236年、吉州廬陵県(現在の江西省吉安市)に、官吏の文儀の子として生まれた。もとの名は雲孫、字は宋瑞、号は文山という。1256年、20歳のときに科挙を首席の状元で通り、提出した論文を読んだ試験官の王応麟は、理宗に人材を得たことを祝う言葉を述べたという。当時、北の金はすでにモンゴル帝国に滅ぼされ、南宋は強大なモンゴル軍の侵攻に耐えている状況だった。
1259年、モンゴル軍が四川に攻め入って遷都が決まると、文天祥はこれに反対し、任官して間もなく免官された。その後、復職したが、宰相の賈似道と折り合わずに辞職した。都の臨安から逃げることを唱えた宦官の処刑を求めたために、37歳で引退に追い込まれたともいわれる。戦況が悪化するとふたたび呼び戻されて贛州の知事となり、地元の人びとから兵を募った。1275年、元の将軍バヤンが攻めてくると、文天祥は余杭へ急いだが間に合わず、臨安へ退いた。張世傑とともに戦いを続ける策を出したが、右丞相の陳宜中に退けられた。役人の多くはすでに逃げ出すか和平に傾いており、皇太后はついに降伏を決めた。
1276年、文天祥は右丞相に任じられ、和約を求める使者として元の陣営へ赴いた。ところが降伏を請うことはせず、バヤンに元軍の意図を問いただして撤退を求めたため、バヤンに捕らえられた。宋の降伏が決まっていくのを、文天祥は陣中から見ているしかなかった。それでも元の陣営を脱出し、福州で張世傑や陳宜中と会った。このとき福州では新しい皇帝の端宗が即位していた。文天祥は南平で兵を集めて江西へ進み、いくつかの勝利を収めたが、元の張弘範の軍に敗れ、1278年に捕らえられた。
張弘範は文天祥を厚くもてなし、元の高い官職を約束して降伏を勧めたが、文天祥は断った。1279年、崖山の戦いで宋の抵抗勢力が壊滅すると、張弘範は国がなくなった以上は忠義に縛られないはずだと、重ねて勧めた。文天祥は「宋の官でありながら国を救えなかった。罪人として裁かれるのが当然で、なぜ今さら命を惜しもうか」と答えた。大都(現在の北京)へ送られて獄に入れられ、崖山に追い詰められた宋の残党へ降伏を勧める文書を書くよう求められたが、「過零丁洋」の詩を送って断った。獄中ではほかに「正気の歌」も詠んだ。元は、かつて宋の宰相で、臨安から逃げた劉夢炎を会わせようとしたが、文天祥は激しく叱りつけた。元は旧皇帝の恭帝も送り込んだが、文天祥は宮殿へお戻りくださいと答えるだけだった。弟の文璧が説得に来たときは、同じ父母から生まれたが同じ天の下では仕えない、と言った。獄中の文天祥には娘から手紙が届き、一家がみな元の宮殿に捕らわれていることを知らされた。
才能を惜しんだクビライは何度も勧誘したが、文天祥は応じなかった。クビライは殺すことに踏み切れず、朝廷でも人気が高かったため、隠遁を条件に釈放してはという意見も出た。しかし、文天祥が生きていることで各地の反乱が活発になっているとわかり、死刑が決まった。1283年1月、文天祥は南宋の方角である南に向かって拝し、刑を受けた。享年47。クビライは文天祥を「真の男子なり」と評したという。後世には忠臣の鑑とされ、日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が評伝を載せ、幕末の志士たちに親しまれた。藤田東湖や吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫らは、それぞれ自作の「正気の歌」を作っている。
同じ年に亡くなった人物
- ザカリーヤー・カズウィーニー (1283年没)
- フィリップ1世・ド・クルトネー (1283年没)
- アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー (1283年没)
- カルマ・パクシ (1283年没)
- マーガレット・オブ・スコットランド (ノルウェー王妃) (1283年没)