HISTORICAL PERSON · 1291年没

アルグン

イルハン朝第4代君主。叔父でイスラームに改宗していたテグデルとの帝位争いを制して即位した。

生涯
1291年没
死亡地
アゼルバイジャン共和国(キャルバジャル県 / アッラーン)
出生地
モンゴル国(モンゴル国)
出典
世界地図
アゼルバイジャン共和国(キャルバジャル県)

伝記

アルグンは、イルハン朝の第4代君主で、1258年ごろに生まれたとされる。第2代君主アバカの長男で、母はアバカの側室の一人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)である。第5代ガイハトゥの異母兄であり、第7代ガザン・ハンと第8代オルジェイトゥの父にあたる。『元史』には阿魯渾大王と書かれる。

1279年3月、アバカがタブリーズを出てホラーサーンへ向かうと、アルグンは父に会いにカズヴィーンへ来た。そこでマジュド・アル=ムルクが、アルグンの宮廷官を通じて目通りを果たし、宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーがマムルーク朝と内通し、その弟アラーウッディーンも謀反を企んでいると嘘を告げた。アルグンがこれを父に伝えると、アバカは内緒にするよう言った。

1282年にアバカが没したとき、アルグンは父に召されて向かう途中でその知らせを聞き、マラーゲに赴いた。親族の王侯たちは慣習に従ってアルグンに杯を献じ、忠誠を誓う将軍ブカはアバカ家の将校たちにアルグンへ仕えるよう命じた。会議(クリルタイ)は三派に分かれ、一派はアバカの弟テグデルを、アルグンに忠実な将軍たちはアルグンを推した。アバカの妃オルジェイ・ハトゥンはアバカの弟モンケ・ティムールを推したが、彼がまもなく死去したため、アルグン側についた。それでも、チンギス・カンのヤサ(掟)ではカン位は王室の年長者が継ぐべきとされていたので、テグデルが優勢だった。重臣シーシー・バクシーの勧めでアルグンが譲り、1282年5月6日にテグデルが第3代イルハンに推戴された。テグデルはすでにイスラーム教を信奉しており、スルターン・アフマドと称した。遅れて着いたアルグンは、自分を待たなかったことを恨んだが、アフマドは敬意を表して黄金20バーリシュを手渡した。同年8月1日には、ジュヴァイニーを中傷し続けたマジュドが有罪とされ、牢から出されて群衆に殺された。

アルグンは将校たちにそそのかされて、ハン位を奪おうと決心した。バグダードで冬営していたとき、アバカの親衛軍だったカラウナス万戸をタガチャルの指揮下に置き、ガイハトゥやいとこのバイドゥらも忠誠を誓った。アルグンはバグダード長官アラーウッディーンの財産を没収し、1283年3月6日、アラーウッディーンは脳卒中で死んだ。アフマドはアルグンの謀反を知り、将軍アリナクを遣わして、クリルタイに出席するよう伝えさせた。しかしアリナクはアルグンに買収され、出席できないと返答した。アフマドは自分の娘をアリナクに嫁がせ、高い地位に就けて味方に引き寄せようとした。アルグンはアフマドにイラークとファールスのハン領を要求し、アフマドは、まず出席せよ、従えば恩恵を施し、逆らえば軍を差し向けると答えた。アルグンと親しいルームの王侯コンクルタイが宴会でアフマドを捕らえようとしていると察した1284年1月18日、アフマドはアリナクに命じて彼の背骨を折って殺させ、バグダードにいたアルグンの将校らを捕らえた。アルグンは軍を集めて5月4日にカズヴィーン近郊のアク・ホージャ平原でアリナクと戦い、敗れて300騎で退却した。アフマドが戦いをやめて会いに来るよう勧めると、アルグンは時間を稼ぐため、服従を伝える使者を送った。その年の8月11日、アルグンはイルハンの位につき、1291年3月10日に没するまで在位した。

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