伝記
サウェリン・アプ・グリフィズは、イングランド王エドワード1世に征服される前の、ウェールズ独立時代最後の公である。ウェールズ語では「末代公サウェリン」と呼ばれる。生年は1223年とも1228年ごろともいわれる。ウェールズ全体に覇権を伸ばした大サウェリンの長子グリフィズの次男で、四人兄弟の二番目だった。1240年に祖父が死ぬと、叔父のダヴィズがグウィネズの公位を継いだ。父グリフィズはダヴィズに捕らえられ、のちにイングランド王ヘンリー3世の手に渡ってロンドン塔に幽閉された。1244年、父は脱出を図って転落し、死んだ。1245年にグウィネズとイングランドの戦争が始まると、サウェリンは叔父を支えて戦った。翌1246年にダヴィズが跡継ぎのないまま死んだ。1247年、サウェリンは兄オワインとともにヘンリー3世と休戦し、コンウィ川より西の地を分け合うことを受け入れた。1255年6月、ブリン・ダルウィンの戦いで二人の兄弟を破って捕らえ、この地の唯一の支配者になった。
その後、サウェリンは領土を広げる道を探った。コンウィ川の東のウェールズ人は、イングランドの支配に不満を持っていた。1256年11月、サウェリンは軍を率いて川を渡り、12月のはじめには、王の城ダイサースとデガンウィを除く地域を押さえた。1258年のはじめには、ウェールズ諸侯の第一人者を意味する「ウェールズ大公」の称号を名乗りはじめた。そのころイングランドでは、ヘンリー3世と諸侯の争い(バロン戦争)が続いていた。サウェリンはその隙を縫って諸侯の領地に攻め込み、領土を広げ、レスター伯シモン・ド・モンフォールと同盟を結んだ。1265年にはシモンとピプトン条約を結んだが、同年8月4日にシモンは戦死した。1267年、ヘンリー3世からイングランドの宗主権を認める条件で、ウェールズ大公と認められた。
サウェリンはグウィネズ公の伝統的な支配地域である北部を治めるだけでは満足せず、ウェールズを真に統一しようとして、南部の諸侯から激しい敵意を受けた。1275年、サウェリンはフランスに逃れていたシモン・ド・モンフォールの娘エリナとの結婚を決めた。王に無断の婚約に不満を持ったエドワード1世は、ウェールズへ向かうエリナ一行の船をイングランド沖で捕らえ、解放と引き換えに臣従を迫った。サウェリンが交渉を引き延ばすと、エドワード1世はウェールズに侵攻した。南ウェールズの諸侯や弟たちも加わったため、戦いは一方的で、サウェリンは本領グウィネズの一部以外をすべて放棄する屈辱的な条件で講和した。完全に臣従することで大公を名乗ることは認められ、1278年、イングランドのウースターで、エドワードの後見のもとエリナと結婚できた。
ウェールズの法に代わってイングランドの法が適用され、イングランドの役人による厳しい支配が始まると、諸侯の不満が高まった。弟ダヴィズらはサウェリンを担いで反乱を起こした。1282年、エリナは娘を産んだ直後に病死した。妻を亡くしたサウェリンは反乱に同調し、準備不足のまま全面戦争に踏み切った。味方を集めに直接支配下にないウェールズ南部に赴いたが、敵意を持つ南部の諸侯は同調せず、12月11日、イングランド軍の待ち伏せで戦死した。首は切り落とされ、ロンドンでさらされた。弟ダヴィズは山岳地帯で抵抗を続けたが、翌1283年に欺かれて捕らえられ、家族とともに処刑された。娘のグウェンシアンはリンカンシャーの女子修道院に送られ、50年近くを過ごして1337年に死んだ。ウェールズ大公家は、ここで絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- アフマド・ファナーカティー (1282年没)
- ミカエル8世パレオロゴス (1282年没)
- アネシュカ・チェスカー (1282年没)
- 日蓮 (1282年没)
- ロベール4世 (ドルー伯) (1282年没)
同じ地域に関係する人物
- カラドク (500年没)
- リチャード・オールダム (1936年没)
- ジョージ・ラムジー (1935年没)
- オワイン・グリンドゥール (1410年代没)
- ロバート・オウエン (1858年没)