伝記
アフマド・ファナーカティーは、モンゴル帝国(元)のクビライに仕えたムスリムの財務官僚である。中国では阿合馬と書かれる。中央アジアのスィル川上流の右岸にあるファナーカト(現在のウズベキスタンのバナーカト)で、イラン系のイスラム教徒の家庭に生まれた。生年は分かっていないが、1242年より前とされる。クビライの正夫人チャブイは、嫁ぐ前からアフマドを知っていた。アフマドはその宮廷に仕えて信任を受け、北中国で王家の物資の調達を担当した。クビライが即位した後の1262年に領中書左右部に抜擢され、諸路都転運使を兼ねて財務行政を任された。クビライの拠点である開平府の長官も務めた。1264年には宰相格の中書平章政事に昇進し、1266年に財務の機関として国用使司が新設されると、その長官を兼ねた。
アフマドは北中国の財務行政で手腕をふるい、新たな都の大都を中心にクビライが立てた新政府に莫大な税収をもたらした。金属や鉱山、塩などの専売による収入を増やし、太原地方の塩の税は1264年から1271年のあいだに何度も引き上げられた。商人や聖職者、軍人、職人などが受けていた免税を減らすよう、クビライに勧めたともいう。1270年、国用使司は尚書省に改められて中書省と同格になり、アフマドはその長官の平章政事として財務行政の全権を握った。尚書省は翌1271年に中書省に合併されたが、財務の部門はそのままアフマドの一族が握りつづけた。1275年、元軍が南に進んでいたとき、アフマドは南宋の紙幣を元の紙幣にきわめて不利な率で交換するようクビライを説得し、専売を新たに征服した土地へ広げることも勧めた。1276年に南宋が征服されると江南の財務行政にも携わり、元の国家収入の大きな部分を占める塩などの専売制や、南中国の諸都市の商業税の制度を整えた。20年にわたってアフマドが財務を統括するあいだ、息子や一族のほか、中央アジア出身のムスリムをはじめ様々な出自の人々が縁故で地方の長官や徴税官になり、その権勢は高かった。
アフマドの税制は、これまでの中国の税制から大きくはずれていた。その徴税は西アジア風の徴税請負の方式で行われ、厳しくなりがちだったため、漢人の評判は非常に悪かった。民衆は「色目人」と呼ばれた配下の徴税官たちに不満をつのらせた。クビライの嫡子チンキムや、中書省の長官アントンらモンゴルの貴族、部下の漢人官僚の許衡らも、アフマドらを激しく敵視した。それでも、宋との戦いに必要な軍費を調達できることから、クビライの信頼は保たれていたとされる。1281年にチンキムの母でもあるチャブイが死ぬと、チンキム派とアフマド派の対立は決定的になった。翌1282年、王著と高和尚らの計画により、アフマドは暗殺された。クビライとチンキムが上都に出かけて不在のとき、陰謀者たちはチンキムの一行を装って宮殿に入った。アフマドは東宮に誘い出され、大きな銅の槌で撃ち殺された。
その後、クビライは王著と高和尚らを処刑した。ところが、アフマドが生前に行った不正が次々と明らかになると、クビライは「王著と高和尚らは正しかった」と述べ、アフマドの一族は弾劾された。クビライはアフマドの墓を暴かせて棺を開き、遺体をばらばらにして犬に食わせ、大都の通玄門にさらした。一族も失脚し、息子たちも処刑された。『元史』はアフマドを「姦臣伝」に入れ、内容は辛辣である。イル汗国で書かれた『集史』は、クビライを支えた名宰相として高く評価している。マルコ・ポーロは、アフマドを「バイロ・アクマト」と書き、25人の息子と莫大な財産を持っていたと伝えている。
同じ年に亡くなった人物
- アバカ (1282年没)
- サウェリン・アプ・グリフィズ (1282年没)
- ブカ・テムル (1282年)
- アネシュカ・チェスカー (1282年没)
- ムヒーッディーン・マグリビー (1282年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アルグ (1266年没)