HISTORICAL PERSON · 1280年没

バラカ (マムルーク朝)

マムルーク朝スルタン、バイバルスの子。父の跡を継ぎ即位したが重臣を冷遇して反発を招き廃位され、流刑先のカラクで没した。

生涯
1280年没
死亡地
ヨルダン(カラク県 / カラク)
出生地
エジプト・アラブ共和国(カイロ)
出典
世界地図
ヨルダン(カラク県)

伝記

バラカは、マムルーク朝のスルターンで、正式にはアッ=サイード・バラカ・ハーンという。アラビア語ではアル=マリク・アッ=サイード・ナースィル・アッ=ディーン・ムハンマド・バラカ・ハーンという長い名で呼ばれ、略してサイード・バラカ・ハーンともいう。第5代スルターンのバイバルスの子で、在位は1277年から1279年のごく短い間にとどまった。1260年にエジプトで生まれたとされ、母は、バイバルスに仕えたホラズム出身の有力な軍人の娘とも、ホラズム人の軍勢の長だった将軍ベルケ・ハーンの娘ともいわれる。

バイバルスは、生前から息子を後継者に据えようと考え、1262年に配下の将軍たちにバラカへの忠誠を誓わせたとされる。割礼の儀式にあわせて誓わせたのは1264年ともいう。1267年か1268年に後継者に立てられ、遠征に出たバイバルスがエジプトを留守にするあいだは、バラカが王権を預かった。ただし、実際には総督ビリクと宰相の後見のもとにあった。バイバルスは、配下の忠誠が形だけのものだと知っていた。1275年に、配下で第一の有力者だったカラーウーンの娘とバラカとの婚約を整えた。婚礼は1276年で、相手はガーズィヤ・ハトゥンという名だったとする記録もある。さらに死期が近づくと、「自分を軽んじる将軍がいれば、真偽を確かめたのち、すぐに処刑せよ。誰にも相談してはならない」と息子に遺言したという。

1277年にバイバルスがダマスカスで没すると、総督ビリクは死を伏せ、遺体がカイロに着くまで待って、7月30日にバラカの即位を実現させた。バラカは18歳だったとされる。即位後は取り巻きを集め、父の時代の重臣を冷遇したため、彼らの不満が高まった。取り巻きたちは重臣を陥れようと謀り、その影響力を警戒した重臣たちとの溝は深まった。母と母方の叔父も、短い治世のあいだ大きな影響力をもった。ビリクは同じ年の8月に没したが、おそらく毒殺で、その影響力を嫌ったスルターンと母の命によるものとされる。総督にはその後も次々と人が任じられては替わり、アイユーブ朝のサーリフ・アイユーブに解放された古参の首長の何人かは捕らえられた。

1278年、バラカは新しい総督に、宮廷で育てられる若いマムルークの親衛隊ジャッサキーヤの出身者を任じた。重臣たちは、このひいきぶりに反発し、反乱を企てたが、直前に防がれた。やがてジャッサキーヤの発案で、キリキア王国への遠征が命じられ、将軍のカラーウーンとバイサリが指揮を任された。軍事上の理由もあったとみられるが、有力なライバルを都から遠ざけたものと受け取られた。総督クンドゥク・ザーヒリーは暗殺の企てを逃れたものの失脚し、遠征軍の将軍たちと共謀を始めた。バラカがダマスカスに出向くと、カラーウーンの軍は密かにカイロへ戻って反乱に加わり、バラカもカイロに戻って城塞にこもったが、鎮められなかった。兵も自らのマムルークも去り、バラカは退位に応じた。弟のサラーミシュが7歳で位に就かされ、バラカは在位2年と19日で、1279年8月18日に、母の尽力で自らの希望したカラクの太守として都を去った。

バラカは1280年にカラクで没した。月は3月とも4月ともされ、馬から落ちたあとの熱病が死因とされ、馬に乗ってポロに興じていた最中の落馬が元だったという。

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