伝記
アブドゥッラー・イブン・ラワーハは、預言者ムハンマドの教友の一人で、詩人であり書記でもあった人物である。629年、ムウタの戦いで戦死した。ハズラジュ族の出身で、同族のなかでもハーリス家に属し、ラワーハ・イブン・サアラバの子であった。イスラームに改宗する前から、故郷ヤスリブ(のちのメディナ)の人々のあいだで高い地位にあり、その名望は改宗後も保たれ、いっそう広がったとされる。読み書きがまだ珍しい技能であった時代に、それができたことから、ムハンマドの書記の一人にも選ばれた。ムスアブ・イブン・ウマイルがクルアーンを読むのを聞いて入信したと伝えられる。
622年3月の第二アカバの誓約では、メディナのムスリムを代表する十二人のナキーブ(代表者)の一人に選ばれ、ムハンマドが共同体を組織するのを助ける役目を負った。ヒジュラ(聖遷)の後は、ムハンマドの最も近い協力者の一人となり、軍事・行政・外交にわたる多くの任務を託された。バドル、ウフド、塹壕、ハイバルの各戦いに加わり、フダイビーヤの和議や償いの小巡礼にも参加している。バドルでの勝利のあとは、ザイド・イブン・ハーリサとともにメディナへ勝報を伝えに遣わされた。イブン・ウバイイの陰謀に目を配っていたともいわれる。
ハイバル征服に先立っては、小さな遠征隊を率いて住民の情勢を探る任務に就いた。この任務から、一部の論者は彼がヘブライ語を解したのではないかと推測している。のちに三十人の使節団の長として再びハイバルへ送られ、征服後には、そこに残ってナツメヤシなどの土地を耕すユダヤ教徒と、ムスリム共同体とのあいだで収穫を分けるため、農産物を見積もる役目を与えられた。ヤスィル・イブン・リザームの暗殺に向けて派遣された遠征を率いたことも伝わっている。
詩人としては、イスラーム以前と以後の両時代を生きたムハダラムの一人で、ハッサーン・イブン・サービト、カァブ・イブン・マーリクと並ぶ初期ムスリム共同体の主要な詩人とされる。改宗後は、ほとんどの作品をムハンマドとイスラームの擁護、そして敵対者への非難にあてた。ムハンマドは、その詩が多神教徒に対して矢よりも効き目があると語り、その誠実さをたたえて、あなた方の兄弟は偽りや空虚な言葉を口にしないと述べたと伝えられる。詩人を戒めるシュアラー章224〜226節が下ったときには、自分もその中に含まれるのではないかと案じたが、続く節が信仰し善行を積む者を除外したことで不安は解けたという。「魂よ、戦場で殺されなくても、おまえはいずれ死ぬ」という句は、よく知られた作品の一節である。詩の多くはラジャズ形式の即興で、飾り気のない平明な言葉で書かれている。散逸した作品は伝記や歴史書に散らばって残り、イブン・ヒシャームが約五十行を伝え、のちにワリード・イブラーヒーム・カッサーブが三十七編、計217行を集めた。
629年、ムハンマドはムウタに向かう軍の指揮官にザイドを任じ、ザイドが倒れればジャァファル・イブン・アビー・ターリブ、その次はアブドゥッラーが継ぐよう定めた。戦いでは二人が戦死したのち、アブドゥッラーが軍旗を取った。数に勝るビザンツ軍を前に退却を考える者もいたが、彼は、ムスリムの力は数や武器ではなく信仰と殉教への希望にあると説いて奮い立たせたと伝えられる。彼は戦いに身を投じ、槍に突かれて討ち死にした。指揮はハーリド・イブン・アル=ワリードに移り、軍全体の撤退を救った。メディナにいたムハンマドは三人の死を語り、三人は天国へ引き上げられたと述べたという。古い伝記は子を残さず没したと記す。
同じ年に亡くなった人物
- Zayd ibn Haritha al-Kalbi (629年)
- ザイナブ・ビント・ムハンマド (629年)
- アル=アアシャー (629年)
- Eochaid Buide (629年)
- ジャアファル・アル=タッヤール (629年没)
同じ地域に関係する人物
- アブデルサラーム・マジャリ (2023年没)
- バラカ (マムルーク朝) (1280年没)
- ジャアファル・アル=タッヤール (629年没)
- Shihab ad-Din Ahmad (1344年没)