伝記
パクパは、チベット仏教サキャ派の座主で、元朝の初代の帝師となった僧である。正式にはドグン・チューギェン・パクパといい、モンゴル語風にパスパとも呼ばれる。漢語の史料には八思巴などの表記がある。本名はロドゥ・ギェンツェンで、幼いころに利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名で呼ばれるようになった。1235年にチベットの有力氏族コン氏に生まれ、父はソナム・ギェンツェン、母はクンガ・キという。生まれた場所はサキャとも、西チベットのガリともいわれる。先代の座主サキャ・パンディタは叔父にあたる。
1244年、サキャ・パンディタは、モンゴルとチベットの仲立ちをするため、オゴデイの子コデンの陣営へ向かった。このとき10歳のパクパと6歳の弟チャクナ・ドルジェも連れていかれた。途中のラサのジョカン寺で、パクパは沙弥の戒を受けたという。一行は1246年とも1247年ともいわれる年に涼州に着き、コデンに会った。叔父は1251年に亡くなったが、パクパは弟とともにコデンの宮廷にとどまり、モンゴル語を学び、モンゴル風の服装をしたという。1253年、雲南への遠征の途上にあったクビライに招かれて六盤山に赴き、その侍僧となった。パクパはクビライに灌頂を授け、チベットと中国のあいだに「施主と説法師」の関係が成り立った。1258年には、クビライが新たに築いた開平の都で、道教の側との大論争にも勝ったとされる。
1260年にクビライがカアンの位に就くと、パクパはこれを理想の王である転輪聖王になぞらえてその権威を高めようとした。モンゴルの国師に任じられたのは1260年とも翌年ともいわれ、チベットのほか、旧西夏領の行政権と、帝国全体の仏教行政を任された。僧侶は徴税と労役の面でも特権を得た。クビライはまた、モンゴル語を書き表す独自の文字をつくるよう命じた。パクパはサキャ・パンディタの作った字母をもとにパスパ文字を完成させ、1269年に、この文字を国字とする詔が出された。翌1270年には帝師と大宝法王の称号を授かった。この年から毎年2月8日より一週間、大都で白傘蓋の仏事という大法会が営まれるようになり、都の正門の崇天門には金の輪が掲げられ、クビライの玉座の上にも白い傘が置かれた。パクパは皇太子チンキムのために『彰所知論』を著し、サキャ派の教えを説いた。
1274年、パクパは帝師の位を異母弟のリンチェンに譲り、引き止めを振り切って帰国の途に就いた。当時、サキャの長官クンガ・サンポと対立しており、クビライの七男アウルクチの軍を伴って帰ったという。1275年の末にサキャ寺に着き、チベット各地を巡った。1277年にはチンキムの後援でチュミクの大法会を開き、その後はサキャ寺にこもることが多くなった。1280年12月15日、生地ともされるサキャで没した。
死後、クンガ・サンポはパクパを毒殺したと告発され、元軍に処刑された。1281年には、パクパの甥のダルマパーラが帝師とサキャ派の長の座に就き、以後、元朝の帝師の座はサキャ派とその周辺の人々が占めることになる。のちの英宗の時代には、各地にパクパを祀る帝師殿が建てられた。泰定帝のころには、パクパを描いた画に基づく塑像もつくられている。
同じ年に亡くなった人物
- バラカ (マムルーク朝) (1280年没)
- ジャン1世 (ブロワ伯) (1280年没)
- Theodora of Arta (1280年)
- ベルナト・ダスクロット (1280年)
- マルグリット2世 (フランドル女伯) (1280年没)
同じ地域に関係する人物
- チョギャム・トゥルンパ (1987年没)
- サキャ・パンディタ (1251年没)
- カール・ゴードン・ヘナイズ (1993年没)
- アティーシャ (1054年没)
- ダライ・ラマ13世 (1933年没)