HISTORICAL PERSON · 1933年没

ダライ・ラマ13世

第13代ダライ・ラマ。清と英国の勢力争いの中でインドへ逃れたが、1913年にラサへ帰還した。カシャグを基盤とする大臣選出や紙幣発行など近代化を進め、チベット旗も定めた。

生涯
1933年没
死亡地
中華人民共和国(チベット自治区 / ポタラ宮)
出生地
中華帝国(サムイェー寺)
出典
世界地図
中華人民共和国(チベット自治区)

伝記

ダライ・ラマ13世は、1876年2月12日に生まれた第13代のダライ・ラマで、法名をトゥプテン・ギャツォという。1878年にダライ・ラマの生まれ変わりと認定され、1879年にわずか3歳で即位した。9世から12世までのダライ・ラマはいずれも若くして亡くなっており、政争による毒殺とみる見方が強い。13世は早くからそれに気づき、食事を信頼できる部下に毒見させて、毒殺を免れたという。当時のチベットは、清、イギリス、ロシアの勢力争いに巻き込まれていた。1888年にはシッキムをめぐってイギリスと戦って敗れ、1890年と1893年の取り決めを経て、国際的にはチベットが清の保護国であることが確認されていた。

1895年、19歳のころ、13世は摂政とその弟が呪詛を働いたとして逮捕した。8世以降、ダライ・ラマの実権は摂政に奪われていたが、この事件をきっかけに実権はダライ・ラマの手に戻った。元摂政は1899年に自室で謎の死を遂げている。13世はイギリスとの交易を拒んでヤートンの道を塞ぎ、イギリスに対抗するためロシアに接近した。チベットに住むブリヤート人の僧アグワン・ドルジェフを通じてロシア皇帝ニコライ2世との仲介を頼み、ドルジェフは1900年に皇帝と面会している。フランスとの協力も探ったが成功しなかった。

1903年、フランシス・ヤングハズバンドが、インド総督カーゾンの命でラサ政府にヤートンの市場開設を要求したが、チベット側は交渉を引き延ばした。イギリス軍は1904年初めにグルでチベット軍数千を破り、ギャンツェまで進んで、8月3日にラサを陥落させた。13世はロシア僧ドルジェフとともにラサを逃れ、1904年末にモンゴルのウルガ(現在のウランバートル)に亡命した。イギリスは9月7日、莫大な賠償金やイギリス以外の外国勢力の駐留禁止などを定めたラサ条約を結んだが、ロシアが抗議して10月に条約の大幅な撤回をさせた。13世は1906年秋にモンゴルを離れ、1908年4月に山西省の五台山に着き、10月14日には北京で西太后と光緒帝に面会した。北京では日本大使館に1週間滞在し、日本大使の林権助の厚いもてなしと、五台山で西本願寺の大谷尊由から日本が仏教国だと説かれたこともあり、以後かなりの日本びいきになったという。

1909年12月にラサへ戻ったが、清が趙爾豊に兵2000を率いさせて進軍したため、13世は西洋各国に支援を呼びかけても協力を得られず、翌年2月12日にインドに亡命した。清軍のラサ進駐はその10時間後だった。ダージリンに留まり、イギリスに行動を制限されながらも国際政治について多くの知見を得た。1911年に辛亥革命で清が滅び、中華民国が成立すると、チベットの民族政権は1912年までに清軍を駆逐し、13世は1913年1月にラサへ帰還した。2月14日にチベットの独立を宣言し、外務省を設けて軍の整備を進め、軍事顧問に日本の矢島保治郎を招いた。雪山獅子旗を国旗と定め、独自の切手を発行し、紙幣も作った。

1914年のシムラ会議では、チベットと中華民国とイギリスの代表が集まり、中華民国をチベットの宗主国とすること、チベット南部をインドに割譲すること、中国とチベットの国境をメコン川とすることなどが提案されたが、中華民国は批准しなかった。これを受けてチベットは中国の宗主権を否定した。13世は欧米の議院内閣制にならい、カシャグを基盤に大臣を選ぶ仕組みを整え、西洋式の病院も設けた。1933年12月17日に死去した。

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