伝記
マクデブルクのメヒティルトは、1207年ごろ、ザクセンの高貴な家に生まれたとされる。確かな伝記の記録は乏しく、生涯についての情報はほとんどが自身の著作に散らばる記述から得られている。それによると、12歳のとき聖霊の幻視をはじめて経験した。1219年には「神の呼び声」と神からの挨拶を受け、それはその後も毎日続いたという。20歳のとき、神の声に従って一切を捨て、神に仕えることを決めた。1230年ごろに生家を離れ、マクデブルクでベギン(ベギン会の会員)となった。世俗の名誉と富を捨ててのことだった。ベギンの共同体のなかでは、指導的な立場にあったと考えられている。ベギンとしての生活はおよそ40年間続いた。マクデブルクでドミニコ会の修道士たちと知り合い、ドミニコ会の第三会員になった。ドミニコ会の著作をたくさん読んでいたことは明らかである。マクデブルクでの最初の20年間、自分の神体験について固く沈黙を守っていた。しかし1250年ごろから、聴罪司祭のドミニコ会士ハインリヒ・フォン・ハレの勧めと助けを受けて、魂のなかで経験した神との出会いを、中低ドイツ語で書き記しはじめた。当時の知的な文学の多くはラテン語で書かれていたなかで、これは珍しいことだった。
その著作『神性の流れる光』は7冊からなり、1250年から1280年のあいだに書かれた。最初の5冊は1260年ごろまでに書き上げられ、その後の10年ほどで第6冊が加わった。1265年ごろからは、ハインリヒ・フォン・ハレによる監修も行われた。いっぽう、修道者たちの怠慢や、高位の聖職者の神学的な見識に対する批判は、大きな反発を呼んだ。著作を焼き捨てるよう求める者もいたという。年を重ねるにつれて、ひとりで暮らすことは難しくなり、目も見えなくなっていった。
1272年ごろ、60歳を超えていたメヒティルトは、ヘルフタの修道院に入った。修道院は彼女を保護し、晩年を支えることを申し出たという。ここで彼女は、これまでに経験した数多くの神の啓示を書き残し、前の6冊とは調子の異なる第7冊を書き加えた。正式に修道女の誓いを立てたのか、礼拝に加わりながら暮らしていただけなのかは分かっていない。死んだ年も分からず、1282年とするのが一般的だが、1290年代まで生きたとする学者もいる。墓は修道院の敷地内にあったと考えられるが、墓標は特定されていない。
メヒティルトの思想の鍵になる言葉は「身体」だといわれ、これは三つの段階からなる。第1の段階では、身体は魂が神と結ばれるのを妨げるものにすぎない。ただし彼女は、肉体を敵視する無意味な苦行には走らず、肉体への蔑視を、神との結合で魂が最上の喜びを感じるための準備と考えた。第2の段階では、身体はキリストが人となって降りたことの象徴として、救いの歴史のうえで積極的な意味を持つ。第3の段階では、身体はイエスの受難の苦しみを分かち合う媒体となり、肉体を罪から解き放つ受難の神学へと進む。この考えは幻視を通じて築かれたとされ、神を夫、敬虔な女性を花嫁にたとえる花嫁神秘主義の形で展開された。そのため危険視されることにもなった。
原本は失われており、1290年前後にドミニコ会士が7冊のうち6冊をラテン語に訳した。14世紀の中ごろには、教区司祭ハインリヒ・フォン・ネルトリンゲンが南部ドイツ語に訳した。作品は15世紀には忘れられたが、19世紀に再発見されて出版された。1861年には、スイスのアインジーデルンの図書館で写本が見つかったとされる。「ドイツ神秘主義の最初の大作」とも呼ばれ、いまも研究が続けられている。
同じ年に亡くなった人物
- 李冶 (1279年没)
- ウルリヒ2世 (1279年)
- アリックス (ブルゴーニュ女伯) (1279年没)
- ヴァルラム4世 (リンブルフ公) (1279年没)
- ボレスワフ・ポボジュヌィ (1279年没)
同じ地域に関係する人物
- アイケ・フォン・レプゴー (1230年代没)
- フリードリヒ2世 (アンハルト公) (1918年没)
- ヨハン・ティティウス (1796年没)
- ダニエル・ゴットロープ・テュルク (1813年没)
- Rudolph, Prince of Anhalt-Zerbst (1621年没)