伝記
ヴァルラム4世は、1247年から1279年までリンブルフ公を務めた人物である。1220年ごろに、リンブルフ公ハインリヒ4世と、ベルク伯アドルフ3世の娘イルムガルトの次男として生まれた。兄のアドルフはベルク伯領を受け継ぎ、ヴァルラムは1247年に父が亡くなるとリンブルフ公位を得た。当時の神聖ローマ帝国は大空位時代にあり、彼はこの政治の動乱で重要な役割を果たした。リンブルフ家が代々支持してきたホーエンシュタウフェン家から離れ、ただちにホラント伯ウィレム2世についた。ウィレムとともにカイザースヴェルト、アーヘン、ナイメーヘンへ出陣し、その見返りにデュースブルクを質として与えられて、土地の寄進で人々の好意を得た。1249年4月19日にはケルン大司教に、あらゆる敵に対して助力すると約束している。1252年にはフランドルとエノーの継承戦争に介入し、エノー伯ジャン2世の側につき、1254年の夏にはウィレムとともにフランドル女伯マルグリットおよびシャルル・ダンジューとの戦いに加わった。フランス王ルイの仲介による和平は、ウィレムの条件が厳しく初めは決裂した。ウィレムには戦いを続ける金がなく、ヴァルラムはイングランド王ヘンリー3世のもとへ派遣されたが、王は資金の前貸しに応じず、それでも9月には和平が成立した。1255年には、アルテンベルク修道院の教会の礎石を据える式に臨んでいる。
1256年にウィレムが没すると、ヴァルラムはヘンリー3世の弟でコーンウォール伯のリチャードを支持し、1257年にリチャードに王冠を提案した諸侯の中にいたとみられる。同年10月には兄のアドルフや甥のユーリヒ伯ウィレムとともに、反乱したケルン市民に対してコンラート・フォン・ホッホシュターデン大司教を支援した。1258年以降はブラバント公ジャン1世と対立し、それまで60年続いた公家との良好な関係は終わった。1261年にケルンの市民権を得たが、その後はケルンの争いに巻き込まれ、1268年にケルンの町を奇襲しようとして捕らえられた。三か月十三日にわたって拘束され、期限内に町と和解できなければ戻るという約束で解放されたが、期限が過ぎても戻ろうとしなかった。
1271年にはオタカル2世のためにハンガリーと戦い、1272年にはオタカル2世、のちにルドルフ・フォン・ハプスブルクにローマ王位を提案した貴族の一人となった。1273年にはケルンとの和解が成立したが、その条件はケルンに有利だったとされる。結婚は二度で、最初の妻はクレーフェ伯の娘ユーディトである。一人娘のイルムガルトが生まれ、1276年にゲルデルン伯レイナウト1世と結婚した。再婚はユーディトの死後で、1277年とも1278年ともいわれ、相手はブランデンブルク辺境伯オットー3世の娘でオタカル2世の姪にあたるクニグンデだった。この結婚はケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクの仲介によるとされ、二人の間に子はなかった。
しかしユーリヒ伯ウィレム4世の死後、ヴァルラムは大司教と不和になった。ウィレムが殺害され、大司教がユーリヒの地を奪おうとすると、ヴァルラムは諸侯と結んでユーリヒの大半を取り戻し、ケルン大司教領とアーヘンの地域を荒らした。ところが1279年には、商業の利益のために大司教と手を結び、ブラバント公も加えた同盟を結んで、マース川とライン川の間の平和を守ろうとした。ヴァルラムは1279年10月14日以後、あるいは1280年の初めに世を去ったとされる。死後、リンブルフ継承戦争が起こった。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公) (1279年没)
- ジャンヌ・ド・ダンマルタン (1279年没)
- イッズッディーン・カイカーウス2世 (1279年)
- アリックス (ブルゴーニュ女伯) (1279年没)
- アフォンソ3世 (ポルトガル王) (1279年没)
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