伝記
ラディム・ガウデンティウス(ポーランド語名ラジム・ガウデンティ)は、ボヘミア出身の聖職者で、ポーランド最初のグニェズノ大司教である。生年は960年代後半から970年ごろ、没年は1006年から1022年のあいだでさまざまに推定され、1020年ごろとする説もある。ラディムはチェコ語、ラジムはポーランド語の形で、ガウデンティウスは修道士となったときに名乗った名である。
父はリビツェを本拠とする有力なスラヴニーク家の当主スラヴニークで、母は父の妾であったとされるが、名は伝わらない。聖アダルベルト(ヴォイチェフ)の異母弟にあたり、若いころから聖職者となる道を定められ、プラハ司教を務める兄の側を離れない同行者となった。プラハの司教座の運営にも携わったという。988年あるいは989年に兄とともにローマへ向かい、聖地巡礼を考えながらモンテ・カッシーノの修道院に着いたが、そこからローマへ戻り、ローマのアヴェンティーノの丘にあるベネディクト会の修道院に入った。990年4月17日に修道名ガウデンティウスを受け、助祭、のちに司祭に叙されたとされる。フランスを巡り、マインツでは皇帝オットー3世に会ったとも伝わる。
兄弟は一度プラハに戻ったが、兄がプラハの司教としての困難に直面したため、994年に再びローマへ向かった。そこからフランスを経て、ポーランドを通り、グニェズノに二か月ほど留まったのち、プルーセン人の地へ向かった。997年4月23日に兄アダルベルトは殉教するが、ガウデンティウスはその運命を免れた。殉教の前日に兄の死を予告する幻を見たと聖人伝は伝える。いったんプルーセン人に連れ去られたが解放され、同行者ベネディクトとともにポーランド公ボレスワフ1世勇敢王の宮廷に戻って兄の死を告げた。ボレスワフが遺体を買い戻してグニェズノへ運ぶ際にも、これに加わった。同じ年の終わりにはローマへ赴いて訃報を伝え、アヴェンティーノの修道院に住まいを定めた。ローマではアダルベルトの伝記を書いた院長ヨハネス・カナパリウスに旅の次第を語り、列聖のために働いた。教皇シルウェステル2世と皇帝オットー3世への働きかけは実り、999年6月29日にアダルベルトは聖人と宣言され、その式にも彼は列席した。
同じ999年、ガウデンティウスはローマで司教に叙され、新設が予定されたグニェズノ大司教区の長に充てられた。1000年のグニェズノの集会で大司教座に就き、クラクフ、ヴロツワフ、コウォブジェクの三つの司教区がその下に置かれた。ポズナンの司教ウンゲルは大司教区に入らず、1012年ごろまで外にとどまったとみられ、大司教との間に争いがあったが、経緯は分かっていない。大司教としての活動はほとんど知られず、同じ会の修道士をミェンジジェチに迎えたとする伝承も後世のもので、確かではない。年代記作者ガルス・アノニムスは、理由が不明のまま大司教がポーランドの地を破門したと記している。
没日は、チェコの二つの死者名簿が10月12日、リューネブルクの名簿が10月14日とする。年については、ヤン・ドゥウゴシュらが1006年とするが、近年は疑問視されている。墓はグニェズノの大聖堂にあり、後継者はヒッポリトとされる。1039年、ブジェチスラフ公に率いられたチェコ軍がポーランドに侵入してポズナンとグニェズノを破壊し、アダルベルトの聖遺物とともに弟ガウデンティウスの遺骨も持ち去った。正式に列聖されたことはないが、ポーランドとボヘミアで崇敬され、チェコでは10月12日に任意の記念日が設けられ、正教会では1月5日に記念される。
同じ年に亡くなった人物
- ガギク1世 (1020年没)
- オースタ・グドブランズドーテル (1020年没)
- ダラズィー (1020年)
- レイフ・エリクソン (1020年代没)
- アビナバグプタ (1020年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・パトクル (1707年没)
- ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ (1818年没)
- オットー・ミュラー (1930年没)
- ボレスワフ・ポボジュヌィ (1279年没)
- アウグスト・フォン・グナイゼナウ (1831年没)