HISTORICAL PERSON · 1279年没

ボレスワフ5世

クラクフ公。妻キンガとの純潔の結婚生活を貫いたことから純潔公と呼ばれ、モンゴル侵攻で荒廃したクラクフをドイツ人移民により再建した。

生涯
1279年没
死亡地
ポーランド共和国(マウォポルスカ県 / クラクフ)
出生地
ポーランド共和国(ノヴィイ・コルツィン)
出典
世界地図
ポーランド共和国(マウォポルスカ県)

伝記

ボレスワフ5世は、1226年6月21日にスタリ・コルチンで、レシェク1世と妃グジミスワヴァの間に生まれた。三番目の子で、ただ1人の息子だった。母はリューリク家の公女とされるが、親についてはっきりしない点がある。名は曾祖父の曲唇公ボレスワフにちなんだ。1227年11月24日、ガンサヴァの会議で父が殺され、ボレスワフは幼くして孤児同然となった。

幼い公の後見をめぐって、周囲の思惑が入り乱れた。クラクフの貴族たちは、母のグジミスワヴァが地元の長官や司教とともに摂政を務めることを望んだが、これは1217年にレシェクとヴワディスワフ3世が結んだ相互相続の条約に反していた。この条約では、一方が死ねば他方がその領地と未成年の子の後見を引き受けると決められていたからである。マゾフシェ公コンラト1世も、息子を通じて後見を求めた。1228年5月5日、チェニアでの会合の結果、ヴワディスワフ3世がボレスワフを養子とし、クラクフとヴィエルコポルスカの後継者にすると決まった。母子はサンドミェシュ公領を受け取り、母がその摂政を務めた。ところがヴワディスワフ3世はまもなくクラクフを追われ、1229年にはコンラト1世がサンドミェシュを占領して母を権力から外した。1231年、母は幼い子の将来を案じてヘンリク髭公に摂政の座を譲った。1232年の秋までに、ヘンリク髭公が小ポーランドを押さえた。

1233年、コンラト1世は母子を捕らえた。教皇グレゴリウス9世の勅書によれば、コンラトは自ら2人を略奪し、殴りつけたという。母子はチェルスクに、のちにシェチェホフに幽閉された。母は平手打ちされるなどの辱めも受けた。ヘンリク髭公は2人の救出を決め、クラクフ長官クレメント・ルシュチャと、囚人の世話役だったミコワイ・ガルの助けを得た。両名が看守に賄賂を贈り、看守が酒を飲んでいる間に、変装して修道院を抜け出したと伝わる。

1239年、ボレスワフはハンガリー王ベーラ4世の娘キンガと結婚した。年代記によれば、2人の結婚生活は完全なものではなかった。キンガがきわめて敬虔で夫との同衾を拒んだためとも、2人がともに貞潔の誓いを立てたためともいわれる。前者の説では、ボレスワフは妻の気持ちを変えさせようとしたが、妻が抵抗したため、純潔を保つ結婚生活を受け入れるしかなかったとされる。ボレスワフ自身も信仰に篤く、愛妾を囲うことはなかった。こうした事情から、「純潔公」の異名で呼ばれるようになった。この異名は早くからクラクフのフランシスコ会年代記に見える。1241年にはモンゴルの侵攻でクラクフが破壊され、レグニツァの戦いでシロンスク公ヘンリク2世が戦死した。この混乱ののち、ボレスワフは1243年に、ポーランドの最高権威者であるクラクフ公の地位に就いた。ボレスワフは破壊されたクラクフの再建のため、多くのドイツ人移民を受け入れた。クラクフは1257年の区画割り当てにより、碁盤の目状に整えられた。しかし1259年の2度目のモンゴル侵攻では、敵将ノガイの攻撃で、クラクフやサンドミェシュは荒廃した。ボレスワフは1279年12月7日に53歳で没した。子がなかったため、従甥にあたるシェラツ公レシェク2世が大公位を継いだ。ボレスワフは、小ポーランド系ピャスト家の最後の男子だった。

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