HISTORICAL PERSON · 1279年没

アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公)

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公。弟と所領を分割してヴォルフェンビュッテル侯となり、子孫は後のハノーファー王家やイギリス王家に連なった。

生涯
1279年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ブラウンシュヴァイク)
出生地
—
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

アルブレヒト1世は、ヴェルフ家出身のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公で、のちにヴォルフェンビュッテル侯となった人物である。「長身公」の呼び名でも知られる。1236年に、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世と、ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世の娘マティルデの長男として生まれた。弟にリューネブルク侯ヨハンがいる。のちのハノーファー王家やイギリス王家のハノーファー朝の男系の祖先にあたる。

1252年に父が亡くなると、アルブレヒト1世は公領の統治を引き継ぎ、のちに弟のヨハンが統治に加わった。1254年にはブラバント公アンリ2世とゾフィー・フォン・ブラバントの娘エリーザベトと結婚したが、子のないまま1261年に死別した。治世の初めは、ホーエンシュタウフェン家の残党への対応などで戦いが続いた。1260年9月にはハーメルンやエルツェンを中心に勢力を持っていたエーファーシュタイン伯家のコンラート4世を討伐し、各城を攻略してその影響力を徐々に弱めた。1260年から翌年にかけては、デンマーク女王マルグレーテ・サンビリアとその幼い子エーリク5世のために、シュレースヴィヒ公エーリク1世と戦ったとされる。

1263年ごろ、モンフェッラート侯ボニファーチョ2世の娘アレッシアと再婚し、七人の子をもうけた。同じ1263年、テューリンゲンをめぐるゾフィーとマイセン辺境伯ハインリヒ3世の争いに、亡き妻の母であるゾフィーの側で加わった。しかしベーゼンシュテットの戦いに敗れて捕虜となり、のちに解放されたものの、テューリンゲンはハインリヒ3世が所有することになった。

1267年、弟のヨハンが所領の分割を要求し、5月31日に兄弟は分割で合意して、1269年に実行された。ヨハンは北部のリューネブルク、ツェレ、ハノーファーを、アルブレヒト1世は南部のブラウンシュヴァイク、アインベック、グルーベンハーゲン、カレンベルク、ヴォルフェンビュッテル、ハルツ山地、ゲッティンゲンを領有した。ブラウンシュヴァイクの居城は兄弟の共有のままとされた。分割後のアルブレヒト1世は、相続した領地の整備に力を注いだ。帝国の大空位時代には、台頭したボヘミア王オタカル2世の側につき、1278年のマルヒフェルトの戦いでの敗北まで行動をともにした。1277年にヨハンが亡くなると、幼い甥のオットー2世の後見を引き受けた。

アルブレヒト1世は1279年8月15日に死去し、ブラウンシュヴァイク大聖堂に葬られた。領土は年長の三人の息子が共同で治め、年少の三人は聖職に就いた。息子のうち、ハインリヒ1世はグルーベンハーゲン侯、アルブレヒト2世はヴォルフェンビュッテル=ゲッティンゲン侯となり、リュターは1331年にドイツ騎士団の総長に選ばれた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物