HISTORICAL PERSON · 1279年没

祥興帝

度宗の七男で南宋最後の第9代皇帝。1278年に端宗の崩御を受けて擁立され祥興と改元、崖山の戦いで8歳のとき陸秀夫に抱かれて入水し、南宋は滅亡した。最期を悼む箏曲『崖山哀』が伝わる。

生涯
1279年没
死亡地
中華人民共和国(広東省 / 崖門鎮)
出生地
中華人民共和国(杭州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(広東省)

伝記

祥興帝は、南宋最後の第9代皇帝である。諱は昺で、趙昺ともいう。廟号と諡号を持たないため、在位中の元号から祥興帝と呼ばれ、即位前の王号から衛王とも呼ばれる。ほかに少帝、幼主、帝昺とも称される。元代に編まれた『宋史』では永国公として、恭帝や端宗とともに本紀の最後の巻にまとめられている。

趙昺は、咸淳7年1月2日(1271年2月12日)に、度宗の七男として生まれた。母は修容の位にあった兪氏である。異母兄に端宗がおり、恭帝とは同年生まれの異母兄弟でもある。咸淳10年(1274年)に信王に封じられ、のちに広王に改められた。

徳祐2年(1276年)に南宋の都の臨安が陥落し、恭帝と謝太后は元軍に囚われた。益王趙昰、のちの端宗と趙昺は、陸秀夫、張世傑、文天祥らの護衛を受けて福建へ逃れた。趙昺はこのとき衛王に封じられた。端宗は福州で即位したが、景炎3年(1278年)に亡くなった。すると陸秀夫によって、碙洲の梅蔚、現在の香港大嶼山の梅窩で趙昺が皇帝に擁立された。一説には、広東省珠海市の担杆島ともいう。元号は祥興と改められ、一行は元軍を避けて崖山へ逃れた。在位はおよそ313日にわたった。広東省の地元の人々の話では、元軍との最後の戦いの前に、趙昺は寺院に仮の御所を置いた。そこの修行僧たちが葉野菜やキノコの汁物を出すと、皇帝はこれを大いに気に入り、「護国菜」と名づけたという。

祥興2年(1279年)、元の張弘範が崖山を攻撃し、張世傑の指揮のもと宋軍の水軍は抵抗を続けて、崖山の戦いと呼ばれる海戦になった。宋軍は壊滅し、3月19日、陸秀夫は幼い趙昺を抱いて海に身を投げた。これによって南宋の残存勢力は完全に滅びた。

崖山での陸秀夫と幼帝の最期は、今も多くの人々の哀惜を誘っている。古くから伝わる箏曲に「崖山哀」がある。壇ノ浦で二位尼とともに入水した安徳天皇と状況が似ているため、日本でも菅茶山の漢詩「赤間が関懐古」や安積艮斎の「壇浦懐古」、田中芳樹の小説『海嘯』、宇月原晴明の小説『安徳天皇漂海記』などで趙昺のことが触れられている。墓は深圳市の赤湾にあり、1960年代に見つかった。中の遺体が本人かは確認されていないが、1984年に香港と深圳が共同で墓を修復し、拡張した。香港には、端宗と衛王の兄弟が休息したと伝えられる場所が宋王台として公園になっている。

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