HISTORICAL PERSON · 紀元前53年没

マルクス・リキニウス・クラッスス

ポンペイウスやカエサルと第一回三頭政治を行った。スッラの配下として軍功を挙げ、没収された財産の買い占めなどで巨富を築いた。第三次奴隷戦争でスパルタクスを討ち、捕虜6000人を磔刑に処した。

生涯
紀元前53年没
死亡地
トルコ共和国(シャンルウルファ県 / ハッラーン)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
トルコ共和国(シャンルウルファ県)

伝記

マルクス・リキニウス・クラッススは、共和政ローマ末期の政務官であり、紀元前115年頃に生まれたとされる。父は紀元前97年の執政官プブリウス・リキニウス・クラッスス、母はウェヌレイアで、三人兄弟の末っ子だった。プルタルコスによれば、兄二人は結婚後も実家で暮らしており、クラッススが贅沢に溺れなかったのはその経験によるという。紀元前87年にマリウスとキンナがローマを占拠すると、父と兄の一人が命を落とし、クラッスス自身はヒスパニアへ逃れた。

紀元前84年、スッラがローマへ進軍を始めると、クラッススはアフリカ属州を拠点とするメテッルス・ピウスのもとに身を寄せたが、やがて仲違いしてスッラの許へ向かった。スッラから一軍を与えられ、護衛兵を求めたところ、「お前の父や兄弟が討たれた敵を我々は攻めているのだ」と返され、発奮したと伝わる。紀元前82年にはサムニウム人らがローマへ迫る中、軍の右翼を任されて敵を破り、スッラの勝利に貢献した。その後、スッラによる政敵の財産没収と競売で、没収された財産を安く買い叩き、銀山や土地、多くの奴隷を抱えて蓄財を進めた。火事で燃えた家の周辺の土地を買い占めたことなどから、ローマの大部分が彼の所有物になったとも言われる。

紀元前73年に第三次奴隷戦争が起こると、元老院は執政官らの軍を送ったが、ことごとく敗れた。クラッススは自らの財産で訓練した新しい部隊を率いて討伐すると申し出て派遣された。指示に背いたレガトゥスのムンミウスが戦って大敗すると、見せしめとして兵士に十分の一刑を実施し、兵の士気を高めたものの、信望を失った。紀元前71年、ルカニアでスパルタクス軍を包囲し、決戦でスパルタクスら多くを戦死させ、六千人の捕虜をアッピア街道沿いで磔刑に処した。ところが、北へ逃れた奴隷軍約五千を討ったポンペイウスが「戦争を終わらせたのは自分だ」と元老院へ報告したため、第一の功を失い、両者の関係は険悪になった。

紀元前70年にはポンペイウスとともに執政官となり、市民一万人を食事に招いて富を示した。ポンペイウスが市民集会に基盤を置いたのに対し、クラッススは元老院で最も勢力を持った。紀元前65年には監察官に選ばれたが、エジプトを私物化しようとした策略は、同僚カトゥルスの抗議による辞任で断念に追い込まれた。紀元前63年のカティリナの陰謀ではキケロに関与を名指しで批判されたが、息子プブリウスの仲介でひとまず和解したという。紀元前60年、カエサルの仲介で宿敵ポンペイウスと三者の政治同盟を結び、これが第一回三頭政治である。紀元前56年のルッカ会談を経て、紀元前55年に再びポンペイウスと執政官を務め、翌年から五年間のシリア属州総督の権限を得た。

シリアに入ったクラッススは、ポンペイウスやルクッルスにできなかったパルティア征服を志した。アルメニア王アルタウァスデス2世はアルメニア経由の進軍を勧め、兵站も約束したが、クラッススはこれを断り、約四万の軍を率いて砂漠を横切る道を選んだ。紀元前53年、カルラエでスレナス率いる騎兵の攻撃に敗れ、財務官カッシウスの戦線再編の主張を退けた。のちにパルティア側から交渉の申し出があると、兵士に迫られ、罠と知りつつ「私は敵に騙されて死んだのであって、市民諸君によって敵に売り渡されたわけではない」と言い残して赴き、捕らえられて、溶かした金を口に注がれて殺されたと伝わる。その死により、ポンペイウスとカエサルの均衡を支えていた重石が外れ、やがてローマ内戦へ向かったとされる。

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