HISTORICAL PERSON · 紀元前53年没

ガイウス・スクリボニウス・クリオ (紀元前76年の執政官)

弁論家として名を知られ、紀元前76年に執政官、前61年にケンソルを務めた。ドルススの改革を支持し、後にスッラの軍に加わって第一次ミトリダテス戦争に赴き、アテナイのアクロポリスを攻略した。

生涯
紀元前53年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ガイウス・スクリボニウス・クリオは、共和政ローマ末期の政治家・軍人である。紀元前125年ごろに生まれ、紀元前53年に没した。紀元前76年に執政官(コンスル)、紀元前61年には監察官(ケンソル)を務めた。平民(プレブス)のスクリボニウス氏族の出身で、父のガイウスは紀元前122年ごろに法務官を務めた弁論家であった。

クリオは比較的早く父を亡くしたが、父の教えで純粋なラテン語を話す習慣を身につけていた。紀元前90年代には弁論家として知られるようになり、その力を示すため、最有力の一族カエキリウス・メテッルス家の代表といえるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポスを告訴した。キケロはその弁論を、誰かの真似ではなく、力強さと優雅さと豊富な表現力によって自分自身の様式を作り上げていたと高く評価している。紀元前91年には、改革を試みた護民官ドルススを支持した。ドルススが殺害されたのち、クリオもおそらく裁判にかけられたが、翌紀元前90年に護民官となった。しかし評判は芳しくなく、民会で演説をしたとき聴衆が皆帰ってしまい、以後は演説をやめたという。この不人気のためか、名誉の階梯の重要な一段である按察官の選挙には立候補しなかった。

紀元前87年、クリオはスッラの軍に加わって第一次ミトリダテス戦争に赴いた。訴追を逃れるためだったとも、不人気で選挙に勝ちにくくなったため軍務に新たな道を求めたためだともいわれる。紀元前86年3月1日にローマ軍がアテナイを攻めたとき、僭主アリスティオンの固めるアクロポリスの攻略を命じられたのはクリオであった。アリスティオンは飢えと渇きで降伏し、処刑された。翌年、スッラがミトリダテス6世とダルダノスの和約を結ぶと、クリオは国を奪われていたビテュニアのニコメデス4世とカッパドキアのアリオバルザネスに、王国の再興を約束した。イタリアに戻ったのちの内戦での動きは分からないが、カンパニアでマリウスの財産の一部を受け取ったことだけは知られている。

紀元前78年末に執政官選挙に立候補したが、選挙運動の途中でレピドゥスのために取り下げ、翌年に再び立候補して当選し、紀元前76年の執政官となった。同僚はグナエウス・オクタウィウスである。非常に信心深く、元老院にシビュラの書の復元を提案した。夏ごろにはマケドニア属州の総督となって赴任し、5個軍団を率いた。ディラキウムで反乱した1個軍団を鎮圧し、年末までにモエシ族に勝利した。翌年も前執政官として指揮権を保ち、ダルダニア族らを破り、ローマの将軍として初めてドナウ川下流域に達した。紀元前74年にも反乱を抑え、ローマに戻って凱旋式を挙行した。

ウェッレスの弁護も引き受けたが、キケロが弾劾演説を行い、ウェッレスは亡命した。紀元前66年にはポンペイウスへの指揮権移譲案を支持した一方、台頭するカエサルには鋭い攻撃を繰り返した。紀元前63年のカティリナ事件の元老院会議では処刑案を支持したが、剣を持った若者たちにカエサルが脅されると、プルタルコスによれば、クリオはトーガをカエサルの周りに投げて逃がした。紀元前62年のボナ・デアの祭りの冒涜事件では、息子とともにクロディウスを支援した。そのためキケロの政敵となった。紀元前61年に監察官に就いたと考えられ、紀元前59年にカエサルが執政官になってもこれに反対し続け、農地法の反対者の一人に名が挙げられたが、法は採択された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物