HISTORICAL PERSON · 1937年没

ミハイル・トゥハチェフスキー

ソ連邦元帥。赤軍の機械化を推進し、「縦深戦術理論」などの画期的な戦術理論を編み出して「赤いナポレオン」と呼ばれた。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の一人。

生涯
1937年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(Q558263)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキーは、1893年2月16日、ロシア帝国の没落貴族の息子として、スモレンスク県のアレクサンドロフスコエに生まれた。生後まもなく一家は経済的な困窮からヴォルガ川流域の都市ペンザへ移り、彼も同地の中学校に通った。1909年にモスクワへ移って陸軍幼年学校に入り、首席で卒業して士官学校へ進んだ。1914年7月にロシア帝国陸軍の少尉に任官して近衛セミョーノフ連隊に配属され、直後に始まった第一次世界大戦に従軍した。最初の6か月で6個の勲章を授与されるほどの活躍をして大尉まで昇進したが、1915年2月にドイツ軍の捕虜となった。五度の脱走を試みた末、1917年8月に成功し、パリとロンドンを経て晩秋にロシアへ帰った。そのときロシアは二月革命で帝政が崩れ、さらに十月革命でボリシェヴィキが政権を握っていた。

新しい権力に従うことを決め、1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入った。農民などが大半の赤軍では元帝政軍人が重用され、トゥハチェフスキーも軍司令官の待遇で迎えられた。1918年6月には第1軍司令官としてチェコスロヴァキア軍と戦い、9月にシンビルスクを占領してレーニンから賞賛された。1919年3月にはコルチャーク軍を迎え撃つ第5軍の司令官として撃破し、赤旗勲章を受けた。同年秋には南方方面軍司令官として、モスクワに迫るデニーキンの軍を相手に、1920年3月までに総崩れに追い込んだ。1920年4月にポーランド軍がロシア領へ侵攻すると、西部方面軍司令官として「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」と兵士を鼓舞して反攻に転じた。しかしワルシャワ攻略に失敗し、フランスの支援を受けたポーランド軍の反転攻勢で惨敗して帰国した。彼にとって唯一の敗北の戦争とされる。レーニンはこの責任を、隣接する南西方面軍の軍事委員だったスターリンに負わせたため、トゥハチェフスキーが罰せられることはなかったが、これがスターリンの深い憎悪の発端になったともいわれる。

1921年3月のクロンシュタットの水兵反乱や、タンボフ州での農民蜂起を鎮圧した。タンボフでは毒ガスの使用を命じたとされる。1925年から1928年まで赤軍参謀長を務め、1931年からは陸海軍人民委員代理兼兵器局長となった。赤軍の機械化と近代化を進め、機械化部隊や空挺部隊の導入に努め、縦深作戦理論の確立で指導的役割を果たし、「赤いナポレオン」と呼ばれた。1934年に共産党中央委員会委員候補に選ばれ、1935年にはヴォロシーロフら4名とともに、ソ連初の元帥の一人となった。ショスタコーヴィチと親交があったことも知られる。

しかしスターリンにとって最も不愉快な人物となった彼は、1937年5月に陸海軍人民委員代理を解かれてヴォルガ軍管区司令官に左遷された。ナチス・ドイツの親衛隊情報部が、彼がドイツ軍の将軍と接触していたとする偽造文書を作り、それがスターリンのもとに届いたとされる。スターリンは5月26日に彼を逮捕させ、拷問のうえで自白を強要した。6月11日、ヤキールら7人とともに特別軍事裁判にかけられ、全員が銃殺刑の判決を受けて、その日のうちにルビヤンカ刑務所で執行された。妻と弟二人らも銃殺され、母と妹は追放先で死に、娘は孤児院に送られた。続く大粛清で赤軍の旅団長以上の45パーセントが殺された。スターリンの死後に名誉回復され、1963年には肖像入りの切手が発行された。

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