伝記
フランク・ビリングス・ケロッグは、1856年12月22日にニューヨーク州ポツダムで、父アサ・ファーンズワース・ケロッグと母アビゲイルの子として生まれたアメリカの弁護士・政治家である。1865年に一家はミネソタ州に移った。貧しい農場で育った彼は、教室が一つしかない田舎の学校に通い、14歳でやめて、高校にも大学にもロースクールにも進まなかった。唯一の専門的な訓練は、私設の弁護士事務所で書記を務めたことだった。学歴の乏しさを自分でも気にしていたという。1877年にミネソタ州ロチェスターで弁護士として開業し、1878年から1881年まで同市の法律顧問、1882年から1887年までオルムステッド郡の検事を務めた。1880年にはフリーメイソンのロチェスター・ロッジに加入した。1886年にクララ・メイ・クックと結婚し、1880年代の後半にミネソタ州のセントポールに移り住んだ。
連邦政府の仕事に加わったのは1905年である。セオドア・ルーズベルトに頼まれ、連邦の独占禁止訴訟の追及を担った。1906年には、州際通商委員会によるE・H・ハリマンの調査のために特別顧問に任命され、1908年にはシャーマン反トラスト法に基づくユニオン・パシフィック鉄道の訴追を指揮した。最も重要な訴訟は、1911年のスタンダード・オイル対合衆国である。この勝訴ののち、1912年から1913年まで米国法曹協会の会長に選ばれた。1916年には共和党からミネソタ州選出の上院議員に当選し、1917年3月4日から1923年3月3日まで務めた。ヴェルサイユ条約の批准をめぐる争いでは、批准を支持した数少ない共和党議員の一人だった。1922年の再選には失敗したが、1923年にチリのサンティアゴで開かれた第5回パン・アメリカ会議に代表として加わった。
1924年1月14日から1925年2月10日までは、クーリッジ大統領によってイギリス駐在の特命全権大使に任命された。国務長官を務めるために後任のアランソン・ホートンに交代したのである。1925年から1929年にはクーリッジ内閣の国務長官を務めた。国務長官としては、おもにラテンアメリカに力を注いだ。メキシコとの関係改善に取り組み、メキシコ政府とカトリック教会の争いの収束に手を貸したが、石油資源の所有をめぐる問題は解決できなかった。ペルーとチリの間の長年のタクナ・アリカ問題の解決も後押しした。極東では、中国に好意的な立場で、関税改革の交渉をまとめ、不平等条約の撤廃にも役立った。1928年にはアイルランドのダブリン市から自由市民の称号を、1929年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章の会員に迎えられた。
最大の功績は、1928年に調印されたケロッグ・ブリアン協定(パリ不戦条約)である。フランスの外務大臣アリスティード・ブリアンの提案による条約で、「国家政策の手段としての戦争の放棄」を定めた。ほぼすべての国に支持され、戦争の開始を処罰される犯罪とみなす根拠となった。1945年以後のドイツと日本の戦争指導者への裁判の、法的な基盤にもなった。この功績により、1929年にノーベル平和賞を受けた。1930年から1935年までは常設国際司法裁判所の判事も務めた。1937年12月21日、脳卒中のあとに肺炎を起こして、81歳の誕生日の前日にセントポールで死去した。遺体はワシントン国立大聖堂の礼拝堂に葬られた。
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