伝記
エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフは、1865年4月9日、プロイセン王国のシュヴェルゼンツ近郊の村に、地主アウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフと妻クラーラの息子として生まれたドイツの陸軍軍人である。ルーデンドルフ家はポンメルンの商人の一族で、母方のフォン・テンペルホフ家は、テンプル騎士団以来のプロイセン軍人の家系だった有名なユンカーであった。1877年に幼年学校に入り、1879年からはベルリンの陸軍士官学校で学んだ。1882年に第57歩兵連隊の少尉に任官し、1890年10月にはプロイセン陸軍大学校に入った。1894年に参謀本部に配属され、1904年にはベルリン参謀本部第2部の部長となった。1908年には中佐に昇進し、工場所有者の娘マルガレーテ・シュミットと結婚した。
1911年にゲオルク・フォン・ヴァルテンゼー中将が参謀本部第1部の部長に就くと、ルーデンドルフの影響力が増した。彼は一貫して、平和は二つの戦争に挟まれた休戦期間にすぎず、あらゆる手段を戦争指導に従わせるべきだと主張した。これは、戦争は政治の手段だとするクラウゼヴィッツの考えに反駁するものであった。「全ドイツ連盟」を使って帝国議会議員の取り込みを図り、1912年には二個軍団の増設や陸軍11万7000人の増員を認めさせた。しかし帝国の財政は逼迫しており、陸相も急速な軍拡による将校団の「民主化」を恐れていたため、行動が「出過ぎ」と見られて、1913年1月にデュッセルドルフの連隊長へ左遷された。
第一次世界大戦が始まった1914年8月、西部戦線のドイツ第2軍で第二補給部長となったルーデンドルフは、連絡将校として同行していた師団の師団長が戦死すると、代わって指揮を執り、難攻不落といわれたリエージュ要塞を攻略した。ついで東部戦線で第8軍が敗れると、現地の指揮を任され、勤続年数が足りず司令官にはなれなかったため、退役していたパウル・フォン・ヒンデンブルクが司令官となり、ルーデンドルフは参謀長に就いた。二人はこの戦争を通じてコンビを組み続け、常に頭脳はルーデンドルフであったとされる。8月23日夜に司令部に着任し、反撃作戦を指揮して、ロシア第2軍を8月29日早朝に包囲した。ロシア第2軍20万人のうち帰国できたのは約1万7000人にすぎなかった。続いて第1軍を東プロイセンから撤退させ、タンネンベルクの戦いは大勝に終わった。以後は東部方面軍参謀長として、ウッチの占領などで実権を握り続けた。
1916年8月にファルケンハインが更迭されると、ヒンデンブルクが参謀総長に、ルーデンドルフは参謀本部次長に任じられた。野戦参謀本部に指揮をとらせて自分の権限を拡げ、皇帝と宰相が国家指導の才能に乏しかったことから政治にも干渉して、「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築いた。情報部を独立させ、宣伝を目的とする課を設けた。この課のもとで映画会社ウーファが設立された。総力戦体制は「ヒンデンブルク綱領」としてまとめられ、女性の動員も命じられたが、社会の均一化を進め、ドイツ革命の下地となった。戦後はヒトラーと結んで1923年にミュンヘン一揆を起こしたが、裁判では無罪となった。のちカトリックへの対応をめぐってヒトラーと決別し、晩年は陰謀論の著述や、宗教団体「ドイツ信徒の家」を創設しての活動を行って、1937年12月20日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- イェギシェ・チャレンツ (1937年没)
- アルベルト・ハイム (1937年没)
- カロル・シマノフスキ (1937年没)
- ゲルダ・タロー (1937年没)
- エフゲニー・パシュカーニス (1937年没)
同じ地域に関係する人物
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- アルフォンス・レバネ (1976年没)
- ヨーゼフ・フィッシャー (1953年没)
- Walter Rilla (1980年没)
- Andreas Kupfer (2001年没)