伝記
ボードゥアン2世は、ラテン帝国の最後の皇帝で、在位は1228年から1261年にあたる。1217年に生まれ、1273年に没した。クルトネー家の出身で、初代皇帝ボードゥアン1世の妹ヨランドと、第3代皇帝ピエール2世・ド・クルトネーとの間の子であり、兄弟のなかでは末子にあたる。父方の祖父ピエール1世は、フランス王ルイ6世の末子であった。
1228年、兄で皇帝であったロベールが死去し、ボードゥアン2世は11歳で皇帝位を継いだ。若年であったため、東方のラテン諸国の貴族たちは、名目上のエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌを終身の摂政に選び、ボードゥアンをその娘マリー・ド・ブリエンヌと婚約させた。この選出には、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国の脅威が強まるコンスタンティノポリスの状況を立て直したいという期待があった。ボードゥアンが実際に帝国を治めるのは、ジャンの死後とされていた。のちにマリーと結婚した。結婚の年は1229年とも1234年ともいわれる。
ボードゥアンは1236年に西へ向かい、ローマ、フランス、フランドルを訪ね歩いて、失った領土を取り戻すための資金と兵を集めようとした。1237年、20歳で帝国の統治を引き継いだが、実際の権力はコンスタンティノポリスの外にはほとんど及ばず、財政も苦しかった。のちには、キリストの茨の冠をヴェネツィア人の代官に質入れせざるをえなくなった。1239年7月初め、ボードゥアンは大軍を率いてコンスタンティノポリスへ向かった。フリードリヒ2世の領内はルイ9世の助けで通ることができ、ドイツとハンガリーを抜けてブルガリアの国境に着くと、友好的な招きと通行の許可を受け、その冬に首都へ戻った。その後、ニカイア側の拠点ツルルムを包囲して奪ったが、アジアの二つの都市ダリヴィアとニキティアトンをニカイアの皇帝ヨハネス3世に奪われ、この勝利で損失を補うことはできなかった。1242年夏ごろにはモンゴル軍の侵攻を受けて敗れ、ラテン皇帝の威信はさらに低下した。1243年には子のフィリップが生まれた。ブルガリアの侵攻も受けるなか、帝国は西欧諸国の援助に頼り続けた。ボードゥアンは再び西欧へ戻り、資金を得るため、ヴェネツィアで長子フィリップを質に入れたという。ナミュール侯の位をめぐっては、1256年にルクセンブルク伯ハインリヒ5世がナミュールを侵攻して征服すると、ボードゥアンはその権利を従兄弟のギー・ド・ダンピエールに売却した。
1261年、ニカイアの共同皇帝ミカエル8世パレオロゴスの攻撃を受けて首都コンスタンティノポリスは陥落し、ボードゥアンはイタリアへ逃れた。これによってラテン帝国は完全に滅び、東ローマ帝国が復活した。その後はシチリア王シャルル1世・ダンジューのもとに身を寄せ、ヴィテルボの条約を結んで、子で後継者のフィリップをシャルルの娘と縁組させる約束を取り交わした。死の直前の1273年、シャルルにラテン帝国の帝位継承権を与えて世を去った。フィリップは1273年から1283年まで名目上のラテン皇帝を称し、1273年にシャルルの娘ベアトリスと結婚し、一女カトリーヌをもうけた。カトリーヌはヴァロワ伯シャルルと結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- Al-Qurtubi (1273年)
- Arsenios Autoreianos (1273年没)
- ジャラール・ウッディーン・ルーミー (1273年没)
- Anno von Sangershausen (1273年)
- ムハンマド1世 (ナスル朝) (1273年没)
同じ地域に関係する人物
- ドメニコ・サッロ (1744年没)
- ボエモン1世 (アンティオキア公) (1111年没)
- グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前216年没)
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)