伝記
グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスは、共和政ローマの政治家・軍人である。生年は分からず、紀元前216年8月2日に没した。紀元前252年と紀元前248年に執政官を務めたプブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスの子と思われる。第二次ポエニ戦争の初期に活躍し、サルディニアやコルシカでの海戦でも働いた。
紀元前217年、ゲミヌスはガイウス・フラミニウスとともに執政官に選ばれた。3月のイドゥスに就任し、担当はガリアだった。春にはアリミヌム(現リミニ)を拠点にハンニバルとの戦いに備えた。前の秋にはハンニバルがアルプスを越えてポー平原に達し、ティキヌスでプブリウス・コルネリウス・スキピオを、トレビアでティベリウス・センプロニウス・ロンゴスを破っていた。ハンニバルがエトルリアに侵入したと聞いたゲミヌスは、同僚フラミニウスとの合流を図った。全軍では間に合わないおそれがあったため、足の速い騎兵4千をガイウス・ケンテニウスに預けて先に向かわせた。ポリュビオスによれば、この増援を知ったハンニバルはマハルバルに一軍を与えて迎撃させ、半数を殺して残りを捕虜にした。リウィウスは、ケンテニウスがトラシメヌス湖畔の敗戦を聞いてウンブリアへ向かい、そこでハンニバルに包囲されて捕らえられたと伝える。
トラシメヌスでフラミニウスが戦死した悲報がローマに届くと、独裁官の選出が求められた。しかし指名の権限を持つ執政官は不在で、連絡も容易でなかったため、元老院がクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選んだ。ゲミヌスはナルニア付近でファビウスの軍と合流して兵を預け、カルタゴ海軍の動きを封じるよう命じられてローマに戻った。彼は120隻の艦隊を率いてサルディニアとコルシカの沿岸をめぐり、カルタゴ船を追いながら各地で人質を取った。さらにメニクス島を襲い、ケルキナ島からは襲撃しない代わりに金十タレントを受け取ってアフリカに上陸した。ところが兵が略奪に走るなかで不意を突かれ、財務官センプロニウス・ブラエススらおよそ千人が戦死したため、シキリアへ引き揚げた。艦隊は別の指揮官に託してローマへ回航させ、自身は徒歩でシキリアを横断した。ファビウスに呼ばれて海峡を渡り、イタリアへ戻った。
11月にファビウスの独裁官の任期が終わると、ゲミヌスは副官ミヌキウスの軍を引き継いだ。フラミニウスの後任の補充執政官マルクス・アティリウス・レグルスとともに、ファビウスの持久戦略を守った。ハンニバルが不在のときだけ攻撃し、決して会戦には応じないまま年を越した。
翌紀元前216年、ゲミヌスとレグルスは前執政官としてインペリウムを延長された。この年の執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスの指示に従い、春から初夏にかけてはカルタゴ軍との小競り合いに徹した。新兵の徴募にも協力した。8月2日のカンナエの戦いでは、ローマ軍の中央を指揮し、そこで戦死した。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前232年の執政官) (紀元前216年没)
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
- ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官) (紀元前216年没)
- ピネス (紀元前216)
同じ地域に関係する人物
- マウロ・ジュリアーニ (1828年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
- イザベル2世 (エルサレム女王) (1228年没)
- ボードゥアン2世 (ラテン皇帝) (1273年没)
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)