伝記
ルキウス・アエミリウス・パウルスは、共和政ローマの政治家・将軍である。生年は伝わらず、紀元前216年8月2日に没した。名門パトリキのアエミリウス氏族の出で、紀元前255年の執政官マルクス・アエミリウス・パウルスの子にあたる。紀元前219年と紀元前216年の二度、執政官を務めた。のちにマケドニア戦争で名を上げる同名の子ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの父でもある。
生涯を通じて、ローマ貴族のなかでもとりわけ保守的な一派に属した。紀元前219年に、マルクス・リウィウス・サリナトルとともに執政官に選ばれた。二人は第二次イリュリア戦争を指揮し、ファロスのデメトリオスを破った。デメトリオスはマケドニア王ピリッポス5世の宮廷へ逃れ、勝利は凱旋式で祝われた。ところがまもなく、二人は護民官から、戦利品を兵に公平に分けなかったと訴えられた。サリナトルは有罪となり、パウルスはかろうじて無罪を得た。
この最初の任期中には、次のような話も伝わる。元老院は新しい宗教儀礼が持ち込まれることを常に警戒しており、ローマに建てられたばかりのイシスとセラピスの神殿を取り壊すよう命じた。ところが、聖なる建物に誰も手を触れようとしなかった。そこでパウルスは自ら縁取りのあるトガを脱ぎ捨て、斧を手に取って、神殿の一つの扉を打ち破ったという。翌紀元前218年には、カルタゴに最後通告を突きつける使節の一人に選ばれている。また神祇官を務めたが、就任の年は分かっていない。
第二次ポエニ戦争が始まって3年目の紀元前216年、パウルスはガイウス・テレンティウス・ウァッロとともに二度目の執政官に選ばれた。平民のウァッロの影響力に対抗するため、貴族の保守派が後押ししたといわれる。二人はそれまでで最大のローマ軍を率いることになり、毎日交代で指揮を執った。
8月2日、ローマ軍はカンナエでハンニバルの軍と対峙した。ポリュビオスの記述では、この日の指揮を執っていたウァッロがパウルスの反対を押し切って会戦に踏み切った。戦いはローマ軍の壊滅的な敗北に終わり、ウァッロは脱出したが、パウルスは戦場で命を落とした。伝承では、一人の護民官が馬を差し出して逃げるよう勧めたのを断り、兵とともに戦い続けて最期を迎えたと語られ、その英雄的な死はホラティウスにも詠まれた。ただし近代の研究では、この叙述に疑問が出ている。ポリュビオスの庇護者であったスキピオ・アエミリアヌスの家系にパウルスが連なるため、記述が好意的に偏った可能性があり、実際には二人の執政官はカンナエでの会戦で意見が一致しており、経験の豊かなパウルスがその日の最高指揮を執った可能性もあるという。娘のアエミリア・テルティアは、スキピオ・アフリカヌスの妻となった。また、医学や軍事技術の研究にも取り組み、投石機の開発に協力したともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官) (紀元前216年没)
- グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前216年没)
- ピネス (紀元前216)
- マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前232年の執政官) (紀元前216年没)
同じ地域に関係する人物
- ドメニコ・サッロ (1744年没)
- マウロ・ジュリアーニ (1828年没)
- ベアトリーチェ・ディ・シチリア (1275年没)
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- Corrado Ursi (2003年没)