伝記
マルクス・ミヌキウス・ルフスは、紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政治家・軍人である。生年は不明で、紀元前221年に執政官、紀元前217年に騎兵長官と独裁官を務め、紀元前216年のカンナエの戦いで戦死した。
ルフスはプレブス(平民)系のミヌキウス氏族の出身である。パトリキ系のミヌキウス氏族は古くから執政官を出していたが、プレブス系では紀元前305年のティベリウス・ミヌキウス・アウグリヌスが最初で、ルフスは二人目であった。紀元前197年の執政官クィントゥス・ミヌキウス・ルフスは甥と思われる。紀元前221年に執政官となったルフスは、パトリキの同僚プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アシナとともに、アドリア海で海賊行為を繰り返していたイストリ族と戦った。イストリの海賊は短期間で鎮圧されたという。
次にルフスの名が現れるのは、ハンニバルがイタリアに侵攻した紀元前217年である。ローマはトラシメヌス湖畔の戦いで敗れ、執政官の一人ガイウス・フラミニウスが戦死し、もう一人のグナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスはアリミヌムに出ていたため、ローマ市に執政官がいなくなった。そこで元老院と民会は、独裁官を選挙で選ぶことにした。これはローマ史上初めてのことで、通常は執政官が指名する。選ばれたのはクィントゥス・ファビウス・マクシムスで、騎兵長官にルフスが選ばれた。騎兵長官も通常は独裁官が指名するが、元老院内に対立があったため、妥協案としてこの手法がとられた。
ファビウスは大きな戦闘を避け、敵の連絡線を断ち、小部隊を叩いて自軍の経験を高める持久の戦術をとった。時間はかかるが、人的・物的資源に富むローマが優位に立てるはずの戦い方であった。しかし政敵も多く、ハンニバルが略奪を続けるなかで、同盟国を守れない臆病な行動にも見えた。ルフスもこの戦術に不満で、ファビウスを臆病で怠惰だと公然と批判した。やがてファビウスが宗教儀式のためローマに呼び戻され、ルフスが軍の指揮を一時引き継いだ。ルフスはゲロニウム近くで油断していたカルタゴ軍と戦って大きな損害を与え、この報にローマは沸いた。護民官マルクス・メティリウスがルフスに独裁官と同じ権限を与える提案をし、民会が賛成したため、史上初めて二人の独裁官が同時に存在することになった。
ゲロニウムのローマ軍は4個ローマ軍団と4個同盟国軍団であった。ファビウスは交互に指揮をとることを提案したが、ルフスはこれを断り、兵力を半分ずつ率いることになった。この情報を得たハンニバルは、ルフスを伏兵のいる場所へおびき出して全方向から攻撃する罠をかけた。ルフスの軍は大損害を受けたが、ファビウスの援軍が来て全滅は免れた。敗戦後、ルフスは自ら指揮権をファビウスに返し、騎兵長官に戻った。6か月の独裁官の任期が終わると、軍の指揮は通常どおり二人の執政官に戻された。ハンニバルはファビウスが丘を下ってくるのを見て、これまで山の上から眺めていた雲がついに嵐の雨になったと語ったと伝えられる。翌紀元前216年、ファビウスの戦術に飽きた元老院議員たちは、決戦を期待してガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスを執政官に選んだ。同盟国の兵と合わせて8万6千の軍が動員された。前年の執政官ゲミヌスは引き続き従軍し、もう一人の前年の執政官マルクス・アティリウス・レグルスは高齢のためローマへ戻るよう命じられ、その代わりにルフスが召集されて大軍に加わった。結果はカンナエでのハンニバルの勝利で、ローマにとって完全な惨敗となり、ルフスもこの戦いで戦死した。
同じ年に亡くなった人物
- ピネス (紀元前216)
- グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前216年没)
- ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
- マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前232年の執政官) (紀元前216年没)
同じ地域に関係する人物
- イザベル2世 (エルサレム女王) (1228年没)
- ボエモン1世 (アンティオキア公) (1111年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
- マウロ・ジュリアーニ (1828年没)
- ドメニコ・サッロ (1744年没)