伝記
イシュトヴァーン5世は、1239年に生まれたハンガリー王国アールパード朝の国王で、在位は1270年から1272年までである。ベーラ4世の長子で、母のラスカリス・マーリアは、ニカイア帝国皇帝テオドロス1世ラスカリスの娘だった。洗礼は10月18日にエステルゴム大司教ロベルトが授け、名は初代国王の聖イシュトヴァーンにちなむ。2歳だった1241年4月11日、ベーラ4世のハンガリー軍はモヒの戦いでモンゴル軍に敗れた。イシュトヴァーンは母とともに、聖王の聖骨や教会の宝物を携えて、ダルマチアの都市トラウへ避難した。モンゴル軍が1242年にバルカン半島から撤退すると、一家はハンガリーに戻った。1246年の文書にはすでに「王にしてスラヴォニア公」と記されており、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアの統治を委ねられたが、実際にはバンと呼ばれる大貴族が支配していた。1253年には、父がハンガリーに住まわせたクマン人の族長の娘エルジェーベトとの婚姻が取り決められた。
1257年に成年に達すると、父からトランシルヴァニア公に任じられた。翌1258年にはスティリア(シュタイアーマルク)へ移され、反乱を鎮めて公となった。しかし、現地の領主の多くはハンガリーの支配を歓迎せず、1259年末にボヘミア王オタカル2世の支援を受けて再び反乱を起こした。1260年7月12日のクレッセンブルンの戦いで、イシュトヴァーンと父の連合軍はボヘミア軍に敗れ、ハンガリーはスティリアの支配権を手放した。イシュトヴァーンはトランシルヴァニアに戻り、1261年には父とともにブルガリアを攻めて、ヴィディンを奪った。
しかし、ベーラは弟のスラヴォニア公ベーラと、ボヘミア王家に嫁いだ娘アンナを寵愛しており、親子の関係は緊迫した。1262年、イシュトヴァーンはドナウ川以東の領地を得て「若王」の称号を与えられたが、両者の支持者は互いに攻撃しあい、和解は一時的なものに終わった。やがてベーラが討伐軍を派遣し、妻子が捕らえられたものの、イシュトヴァーンは反撃に転じ、1265年3月のイサセグの戦いで決定的な勝利を収めて講和した。1267年にはエステルゴムで中小貴族が出した請願を、父とともに受け入れている。その後、ブルガリアに再び攻め込んでヴィディンの領主に従属を認めさせ、外国の支持を得るため、アンジュー=シチリア家のカルロ1世と二重の婚姻関係を結んだ。娘マーリアはシチリアの王子カルロと、息子ラースローはシチリアの王女イザベッラと結婚した。
1270年5月3日にベーラが没すると、イシュトヴァーンは王位を継いだが、妹のアンナと一部の貴族は王家の家宝を持ってプラハに亡命した。8月にはクラクフ公ボレスワフ5世と会見してボヘミアへの共同攻撃に同意し、10月にオタカル2世と2年間の休戦を約束した。しかし国境の小競り合いが戦争に発展し、1271年5月21日のラーバ河の戦いで、イシュトヴァーンはボヘミア軍に決定的な勝利を収めた。1272年、貴族のケーセギ・ヘンリクが王子ラースローを誘拐して若王の地位に据えた。イシュトヴァーンは軍の招集を計画したが、その最中の8月6日に急死した。エルジェーベトとのあいだには6人の子があり、そのなかにラースロー4世がいる。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー3世 (イングランド王) (1272年没)
- エーリク1世 (1272年)
- バルテルミ・ラングレ (1272年没)
- リチャード (コーンウォール伯) (1272年没)
- アンリ4世 (ブラバント公) (1272年没)
同じ地域に関係する人物
- Imre Nagy (2013年没)
- レオンハルト・ラウヴォルフ (1596年没)
- カルロ3世 (ナポリ王) (1386年没)
- ゲーザ1世 (ハンガリー王) (1077年没)
- Mor Koczan (1972年没)