伝記
初代コーンウォール伯リチャードは、1209年1月5日にウィンチェスター城で生まれたイングランドの王族である。ジョン王とアングレーム女伯イザベルの次男で、兄に国王ヘンリー3世がおり、妹にはスコットランド王アレグザンダー2世の妃ジョーンと、皇帝フリードリヒ2世の皇后イザベラがいる。1225年にポワトゥー伯とされ、同じ年に16歳でコーンウォールを兄から贈られた。コーンウォール伯に叙せられたのは1227年ともいわれる。錫の産地であるコーンウォールからの収入で、ヨーロッパでも指折りの富豪となり、その金銭を通じてフランス王ルイ9世やフリードリヒ2世とも交友を持った。兄のためにポワトゥーやブルターニュで戦い、摂政も3度務めたが、兄弟の仲はしばしば緊張した。1233年には兄の統治に不満を持つ貴族と連合して反乱を起こして失敗し、兄に罪を許された。
1231年3月に、グロスター伯の裕福な未亡人でウィリアム・マーシャルの娘のイザベルと結婚した。兄はマーシャル家を警戒していたため、この結婚を喜ばなかった。同じ年に手に入れたウォリングフォード城を主な住まいとして、多くの金を投じて整えた。1238年には、妹エリナーとシモン・ド・モンフォールの結婚に抗議して反乱を起こしたが、このときも多くの贈り物でなだめられた。イザベルとのあいだには4人の子が生まれたが、成人したのは息子ヘンリーだけだった。1240年にイザベルは出産で亡くなった。イザベルは先夫の隣のテュークスベリーに葬られることを望んでいたが、リチャードはボーリュー修道院に葬り、信心のしるしとして心臓だけをテュークスベリーに送った。
同じ1240年、リチャードは聖地へ向かい、男爵十字軍の第二陣を率いた。戦闘はしなかったが、捕虜の釈放や戦死した十字軍兵士の埋葬のために交渉し、サラディンに壊されたアスカロンの再要塞化も行った。帰途には妹で皇后のイザベラを訪ねた。1242年1月に帰国すると、ヘンリー3世と王妃エリナーは、エリナーの妹サンチアとの結婚を持ちかけた。リチャードは聖地への途上でサンチアの父レーモン・ベランジェ4世に温かく迎えられており、1243年11月、ウェストミンスターで結婚した。この結婚で、3人の子が生まれた。リチャードは1243年12月ごろ、ポワトゥーの権利も手放した。
1254年にコンラート4世が死んで神聖ローマ帝国が大空位時代に入ると、1257年の選帝侯によるローマ王選挙で、カスティーリャ王アルフォンソ10世とともに候補に推された。リチャードは莫大な金を使って帝国諸侯に自分への支持を働きかけ、選帝侯たちは、アルフォンソ10世よりリチャードがふさわしいと考えた。リチャードはアーヘンでローマ王として戴冠し、皇帝としても推挙されかけた。
1261年にサンチアと死別した。1263年にヘンリー3世とシモン・ド・モンフォールらの内乱(第二次バロン戦争)が起こると、リチャードは仲介役を務めて一度は両者を和解させたが、1264年に両者が再び決裂すると兄に従って戦った。1265年のルイスの戦いで兄とともに敗れて捕虜となり、そのため帝国諸侯から見放されて、皇帝としての即位は実現しなかった。1269年にはファルケンブルク伯の娘ベアトリクスと再婚したが、子はなかった。息子ヘンリーは1271年に暗殺され、シモンの遺族の差し金だったともいわれる。リチャードは翌1272年4月2日に死去した。コーンウォール伯位は息子エドマンドが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- エーリク1世 (1272年)
- 後嵯峨天皇 (1272年没)
- アンリ4世 (ブラバント公) (1272年没)
- ヘンリー3世 (イングランド王) (1272年没)
- バルテルミ・ラングレ (1272年没)
同じ地域に関係する人物
- イザベラ・オブ・カスティル (1392年没)
- リチャード・ライデッカー (1915年没)
- トレヴァー・ハワード (1988年没)
- ジョセフ・スミット (1929年没)
- ジェフリー・パーマー (2020年没)