HISTORICAL PERSON · 1077年没

ゲーザ1世 (ハンガリー王)

ハンガリー王。従弟シャラモン王と王位を争い、ポーランドやボヘミアの援軍を得て内戦に勝利し王位に就いた。

生涯
1077年没
死亡地
ハンガリー(ペシュト県 / ヴァーチ)
出生地
ポーランド王国(ポーランド王国)
出典
世界地図
ハンガリー(ペシュト県)

伝記

ゲーザ1世は、のちにハンガリー王となるベーラ1世の長男として、1040年ごろ、父の亡命先であるポーランドで生まれた。母はポーランド王ミェシュコ2世の娘で、ゲーザ自身はマグヌスの名で洗礼を受けた。1048年ごろ、父が兄アンドラーシュ1世から王国の約3分の1に当たる公領を与えられると、一家はハンガリーへ戻った。当初、父は伯父の後継者とされていたが、伯父にシャラモンが生まれ、その幼い息子を王位に就けようとしたことで対立が深まった。一族の年長者を優先する継承慣行と、王の息子への継承が衝突したのである。ゲーザは1059年、父や弟たちとともに再びポーランドへ向かった。

1060年、父子はポーランド軍の援助を受けて帰還し、内戦でアンドラーシュを破った。伯父はこの戦争で死亡し、父が即位した。この戦いで捕虜となったドイツ側の指揮官ヴァイマル伯ヴィルヘルムについては、ゲーザが父を説得して釈放させたとされる。ゲーザは父の有力な助言者となったが、父の旧公領を直ちに授けられたわけではなかった。父はドイツ側との交渉でゲーザを人質に差し出すことも提案したが、受け入れられなかった。1063年に皇帝軍がシャラモンを復位させようと侵入し、父も死去すると、ゲーザは旧公領の継承を条件に従弟の王位を認めようとした。交渉がまとまらず、弟ラースロー、ランペルトとともにポーランドへ逃れたが、ボレスワフ2世の援軍を得て戻った。1064年1月、ジェールで成立した和約により、兄弟はシャラモンの王権を承認し、代わりに父の公領を得た。同年の復活祭にはペーチで王と祝い、ゲーザが王の頭に冠を置く儀礼も行われた。

公としてのゲーザは独自の貨幣を鋳造し、当初はシャラモンと協力した。1068年には、王国東部へ侵入した軍勢を王とともにケルレーシュで破っている。この侵入者については、ペチェネグ族ともクマン人ともいわれる。クロアチア支援の遠征やベオグラード包囲などにもかかわったが、1071年以降、王との関係が険悪になった。1074年2月、シャラモンは公領に侵入してゲーザを破ったものの、ゲーザはポーランドやボヘミアの援助を得て反撃した。3月14日のモジョラードの戦いで勝利し、やがて王位を獲得した。シャラモンは皇帝の庇護を求め、同年8月には皇帝とともに侵攻したが、皇帝はザクセンの反乱に対処するため軍を引いた。シャラモンはなおモションやポジョニ周辺で支配を維持し、両者の争いは決着しなかった。

即位したゲーザは、ローマ教皇グレゴリウス7世と東ローマ皇帝ミカエル7世へ使者を送った。教皇が求めたハンガリーに対する宗主権は受け入れなかった一方、東ローマ皇帝からは王冠を贈られた。従来の王冠はシャラモンが持っていたため、ゲーザは贈られた冠を戴冠に用いた。1075年には、東ローマの将軍ニケフォロス・ボタネイアテスの姪シナデネと再婚した。治世にはガラムセントベネデクに修道院を建て、ヴァーチ大聖堂の建設を終えている。1076年、弟ラースローにシャラモン軍の迎撃を命じたが敗れ、病身のゲーザは晩年に従弟との和平を探った。1077年4月25日に死去した。息子たちはまだ幼く、王位は弟ラースローが継いだ。

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