HISTORICAL PERSON · 紀元前59年没

劉賀

前漢の第9代皇帝で、武帝の孫。霍光に擁立されて即位したが、不行跡を理由にわずか27日で廃され、海昏侯となった。2011年に墓が発見され、論語の異本や孔子像を刻んだ銅鏡などが出土した。

生涯
紀元前59年没
死亡地
中華人民共和国(山東省 / 巨野県)
出生地
中華人民共和国(巨野県)
出典
世界地図
中華人民共和国(山東省)

伝記

劉賀は、前漢の第9代皇帝である。霍光に擁立されて即位したが、約1か月で廃された。即位前の王号から昌邑王と呼ばれ、廃帝、漢廃帝、廃位後の称号から海昏侯とも呼ばれる。武帝の孫で、昌邑哀王劉髆の子にあたる。父が紀元前88年に早世したため、紀元前86年に幼くして王位を継いだ。

王としての劉賀についての記録は、廃位後に書かれた材料に基づくため、偏っているか、作り事が混じっている可能性がある。それによれば、十代のころ、王国の都の長官王吉が、学問に励み謙虚であるよう率直に諫め、劉賀はその報告を喜んで褒美を与えたが、行いは改めなかった。護衛の長官龔遂も、評判の悪い者と交わり浪費する劉賀を諫め、劉賀は聞き入れる素振りを見せたが、龔遂の推した護衛をまもなく退け、以前の取り巻きを呼び戻した。

紀元前74年、叔父の昭帝が子のないまま亡くなると、輔政の霍光は、武帝の唯一生き残った子である広陵王劉胥が武帝に好まれなかったとして退け、孫の劉賀に目を向けた。昭帝の皇后上官氏の命で都の長安に招かれた劉賀は大いに喜び、都の山陽からすぐに出発し、護衛の馬が疲れて倒れるほどの速さで進んだ。王吉が喪中にふさわしくないと止めたが聞き入れず、道中では地方の役人に、長く鳴く鶏と女性を差し出すよう命じた。喪中は性交を慎むべき期間であった。龔遂が問いただすと、家僕の長に責任を押しつけ、その者は処刑された。長安に着くと昭帝の喪の儀礼に出席したのち、帝位に即いた。

即位すると、昌邑から連れてきた部下をたちまち昇進させ、喪を守らず、昼夜を問わず宴に興じ、遊び歩いた。霍光はこの振る舞いに驚き落胆し、大司農の田延年の進言で廃位を考え始め、将軍の張安世と丞相の楊敞に諮って同意を得た。即位から27日目、霍光らは高官を集めて計画を告げ、従わなければ殺すと迫って同調させ、そろって上官皇太后のもとへ報告に行った。太后は同意し、昌邑の部下約200人を宮中から締め出させ、張安世が逮捕した。劉賀は何も知らないまま呼び出され、玉飾りの礼服を着た太后と居並ぶ官僚たちを見て異変に気づいた。弾劾文は計1127例の不行跡を挙げ、主なものは、喪中に肉食と性交を断たなかったこと、部下を不当に昇進させたこと、宴や遊戯にふけったことなどであった。太后は弾劾を認めて廃位を命じ、劉賀は厳重な警護のもと昌邑の邸へ送られた。侯4,000戸の領主に降格され、のち海昏侯となった。

ただし、廃位から宣帝擁立までには不自然な点があるともいわれる。西嶋定生は、劉賀の家臣がことごとく処罰され、処刑の際に「やるべきことをやらなかったためにかえってやられてしまった」と嘆いた者がいたことから、霍光らを排除して権力を確立する計画があり、それが露見して逆クーデターになったと推定した。劉賀を諫めていたとして許された龔遂、王吉、学問の師の王式らが密告者と疑われている。宣帝の密命で様子を見に行った太守の報告では、20代後半の劉賀はすでに中風で歩行が不自由だったという。数年後には訪問客への発言をとがめられ、4,000戸のうち3,000戸を削られた。紀元前59年、33歳で死去した。後継ぎとして届けた子が次々に亡くなったため世襲は認められなかったが、元帝の時代に嗣子の劉代宗が特例で継ぎ、海昏侯は後漢の代まで続いたという。2011年、江西省南昌市で盗掘をきっかけとした緊急発掘により墓が見つかり、2016年に江西省政府が劉賀の墓と断定した。劉賀の名を刻んだ玉の印章、『論語』の異本である「斉論語」、孔子と孔門十哲の図像と略伝を刻んだ銅鏡などが副葬されていた。

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