伝記
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルは、紀元前103年ごろに生まれ、紀元前59年に没した共和政ローマの政務官である。紀元前60年に執政官を務めた。平民のカエキリウス氏族の出で、この氏族は紀元前3世紀初めに元老院階級となり、紀元前284年にはルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルが氏族最初の執政官となった。メテッルス家は氏族のなかでも特に栄えた家である。弟にネポスがいる。かつては二人の父を執政官ネポスとみる説が長く信じられたが、T・ワイズマンが1971年の論文で、父は護民官ケレルであり、ネポスのほうが養子に出たことを示した。
現存する記録に最初に現れるのは紀元前80年、スッラが永久独裁官だったころで、弟とともにシキリア属州総督時代の権力乱用を理由にマルクス・アエミリウス・レピドゥスを告訴した。背後にレピドゥスを恐れるスッラがいたとみる歴史家もいる。ポンペイウスがレピドゥス側についたうえ、大衆もレピドゥスを支持していたため、兄弟は異母妹ムキア・テルティアがポンペイウスの妻であることを口実に告訴を取り下げた。紀元前66年には義弟ポンペイウスの下でレガトゥスとして第三次ミトリダテス戦争を戦い、アルメニア国境付近でアルバニア軍の奇襲を受けたが、分遣隊を率いて撃退し自軍に戻ったという。
紀元前63年には首都担当法務官となった。この年、老元老院議員ガイウス・ラビリウスが約40年前の護民官サトゥルニヌス殺害で告発された。告発者は護民官ラビエヌスで、背後にはカエサルがいた。古い国家反逆罪審問の手続きで死刑が宣告され、ラビリウスはケントゥリア民会に上告し、キケロが弁護したが、民会も死刑に傾いた。そこで鳥占官でもあったケレルは、悪い前兆があったとしてヤニクルムの丘の軍旗を降ろし、民会を解散させた。同年末にカティリナの陰謀が発覚すると、カティリナが身柄を預けたいと申し出たのをケレルは拒んだ。キケロに派遣されてピケヌムとガリア・キサルピナで軍を集め、容疑者を多数捕らえ、3個軍団を率いてファエスラエでカティリナの進路をふさいだ。反乱軍はケレルと執政官アントニウス・ヒュブリダの軍に挟まれ、カティリナはヒュブリダの軍を攻めて敗れた。
紀元前62年にはプロコンスルの権限でガリア・キサルピナを治めた。この年1月付けの書簡が残っており、ケレルはキケロが弟ネポスを攻撃したことを非難している。紀元前61年、東方から戻ったポンペイウスの支援で次期執政官選挙に勝ったが、両者の関係はすぐ破綻した。ポンペイウスはムキア・テルティアと離婚し、ケレルは閥族派に加わった。紀元前60年に執政官となると、ポンペイウスの退役兵に土地を配る農地法案に反対し、提案者の護民官ルキウス・フラウィウスの逮捕を命じた。ポンペイウスがカエサル、クラッススとの同盟に動いたのは、ケレルら閥族派に対抗するためであった。またクロディウスを平民身分に移して護民官にする提案にも、その姉の夫であるにもかかわらず反対した。
紀元前59年春、ケレルは執政官カエサルの農地法にも反対した。前執政官としてガリアへ赴く予定だったが、出発前に急死した。妻に毒殺されたという噂が流れたが、死に立ち会ったキケロは、3日前まで元老院や演壇で元気だった彼が、最期まで祖国のことを案じ、これから国を襲う嵐を訴えたと『カエリウス弁護』に記している。妻は悪名高いクロディアで、この結婚は不幸だったといわれ、詩人カトゥルスは彼を「愚か者」「ロバ」と呼んだ。キケロはケレルを弁論家として、学識も才能もなく、主に大衆的な案件を扱ったと評している。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス (紀元前 59年)
- 劉賀 (紀元前59年没)
同じ地域に関係する人物
- ピウス4世 (ローマ教皇) (1565年没)
- マリオ・モニチェリ (2010年没)
- イザベラ・フォン・バイエルン (1924年没)
- Ettore Puricelli (2001年没)
- ボニファティウス2世 (ローマ教皇) (532年没)