伝記
ミゲル・デ・ウナムーノは、1864年9月29日、スペイン北部のビルバオに、菓子店を営む父フェリクスと母サロメの第三子として生まれた。ミゲルの名は、この日が天使ミカエルの祝日であることによる。カトリックの伝統を保つ旧家で厳格に育てられ、6歳のとき父を亡くし、母の手で育った。父がメキシコから持ち帰った歴史、法律、哲学、社会科学の書籍で勉強した。9歳だった1873年、第三次カルリスタ戦争でカルリスタがビルバオを砲撃し、生家の近くに着弾する事件があり、この経験は小説『戦争の中の平和』に生かされている。1880年にマドリード大学の文学部に進み、18歳だった1883年に、バスクの起源と先史時代をテーマとする論文で哲学と文学の博士号を得た。ハーバート・スペンサーの実証主義に深い関心を寄せ、カントやヘーゲルの著作を読みふけった。
教授の座を目指したが大学との溝が埋まらず、1884年にビルバオへ戻り、ラテン語の代用教員や個人教授で暮らした。教員資格試験にはたびたび失敗した。新聞や雑誌への寄稿や、社会主義の新聞『階級闘争』の編集にも関わった。1891年にサラマンカ大学のギリシア語教授試験に合格してサラマンカに移り、同年コンセプシオン・リサラガと結婚して、10人の子をもうけた。1895年には『生粋主義について』で、真のスペインの思想や国家とは何かを問い、大きな反響を呼んだ。1896年生まれの三男ライムンドは脳水腫のため正常な意識のないまま7歳で死に、この出来事は彼に終生、死の問題を突きつけたという。1898年に米西戦争でスペインが敗れると、国の刷新を模索する「98年世代」が現れ、ウナムーノはその指導者の一人に挙げられた。1900年にはサラマンカ大学の総長に任命された。キェルケゴールを原語で読むためにデンマーク語を習得し、「南欧のキェルケゴール」と呼ばれる。『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(1905年)や、死をめぐる生と理性の葛藤を論じた『人間と民族における生の悲劇的感情』(1913年)は代表作となった。
1914年に国王アルフォンソ13世から総長を罷免され、1920年には論文で体制批判をしたとして懲役16年の判決を受けた。同僚たちの弁護で副総長に選ばれた。1923年にプリモ・デ・リベラの独裁が始まり、批判したため停職となり、1924年にカナリア諸島のフエルテベントゥーラ島へ流された。ギリシア語の新約聖書、ダンテの『神曲』、レオパルディの詩集の3冊を携えたという。4か月後、フランスの新聞の協力で脱出してパリに着き、モンパルナスのカフェでピカソやコクトー、藤田嗣治らと交わった。約一年後にはフランス領バスクのアンダイエに移って、共和制の実現を訴え、『キリスト教の苦悶』を書いた。1930年に独裁が崩れると、熱狂的に迎えられて総長に復帰し、1931年の第二共和政の成立後は終身総長となり、憲法制定議会選挙で当選したが、1933年には政治から身を引いた。
1936年7月にスペイン内戦が勃発し、反乱軍の集会で演説したため、共和国政府から総長を解任された。9月には反乱軍のカバネリャス将軍が総長に戻したが、10月12日、集会で反乱軍の兵士たちを前に反戦を説いたため、フランコに解職されて自宅に軟禁され、12月31日に自宅で亡くなった。母語のスペイン語のほか17言語に通じ、スペインに折り紙を伝えたことでも知られる。
同じ年に亡くなった人物
- アンドリア・モホロビチッチ (1936年没)
- ジャアファル・アル=アスカリー (1936年没)
- ビカイジ・カマ (1936年没)
- アンリ・ルシャトリエ (1936年没)
- フェルディナント・テンニース (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- フアナ・マヌエル・デ・カスティーリャ (1381年没)
- ベアトリス・デ・ポルトゥガル (1347-1381) (1381年没)
- ウェンデル・スタンリー (1971年没)
- フランシスコ・サンチェス・デ・ラス・ブロッサス (1601年没)
- フランシスコ・デ・モンテーホ (1553年没)