HISTORICAL PERSON · 1266年没

ナーシルッディーン・マフムード・シャー (奴隷王朝)

奴隷王朝の第8代君主で、1246年に貴族バルバンらに擁立され即位した。バルバンの娘と結婚して軍の指揮官に任じたが実権を奪われ、傀儡のまま1266年に没し、毒殺されたと伝わる。

生涯
1266年没
死亡地
インド(デリー)
出生地
—
出典
世界地図
インド(デリー)

伝記

ナーシルッディーン・マフムード・シャーは、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第8代君主で、1246年から1266年まで在位したとされる。ヒジュラ暦626年にあたる1229年か1230年に、デリーのカスル・バーグ(庭園の城)で生まれたという。宮廷歴史家ミンハージュは、彼を第3代君主イルトゥトゥミシュの子と記す。母は側室で、のちに息子の治世で「マリカ・イ・ジャハーン」の称号を与えられた。イルトゥトゥミシュの長子ナーシルッディーン・マフムードが早世したあとに生まれ、イルトゥトゥミシュはこの亡き王子にちなんで名をつけ、母子をローニー村の宮殿に住まわせた。一方で、イルトゥトゥミシュの子ではなく孫だとする記述もあり、亡くなった長子の子で、父の名を受け継いだとみる説もある。

1242年5月10日、君主ムイッズッディーン・バフラームが廃位され、貴族たちがデリーを掌握した。マフムードは、兄のジャラールッディーン・マスウード・シャー、甥のアラーウッディーン・マスウードとともに、白い城の幽閉からフィールーズ城に連れ出され、貴族たちは甥のアラーウッディーン・マスウードを君主に選んだ。兄弟は1243年9月まで幽閉され、君主となったマスウードが釈放を命じて、マフムードにバハライチの町とその周辺を与えた。マフムードは母とともにその領地に赴き、地元の反乱者や近くの山地への遠征にあたった。1246年6月、マスウードが廃位されると、トルコ系貴族チェハルガーニーの一人バルバンらに擁立され、同月12日に17歳か18歳で即位した。後世の歴史家フィリシュタは、バハライチでの善政が推戴の理由だったと語っている。

バルバンは摂政(ナーイブ)として政権内の組織を手に収め、自分の立場を固めていった。1249年(1250年とも)にマフムードはバルバンの娘と結婚し、バルバンの影響力はさらに増した。マフムードはバルバンに「ウルグ・ハーン・アーザム」の称号を与え、国軍の指揮官にも任じた。1253年、マフムードはインド人貴族イマードゥッディーン・ライハーンの助けを得て、バルバンを宮廷から排除し、ナーガウルの領地に追いやった。トルコ人に代えて非トルコ系の人材に行政を任せる形になった。ところが1254年にトルコ系の士官らが反乱を起こしてデリーを包囲すると、バルバンは領地からデリーに戻り、交渉の末に復帰した。ライハーンはバダーユーンの領地に追いやられ、翌1255年に殺された。バルバンはさらに、王族を象徴する白い日傘など、王の所持品を渡すよう命じた。バルバンは貴族の一人でありながら全権を握り、マフムードは傀儡として国政を牛耳られた。

マフムードは信仰に篤く、多くの時間を礼拝とクルアーンの書き写しに費やした。写本を売って個人の費用に充て、身の回りの世話をする召使いも持たず、妻が家族の食事を作ったという。歴代の君主の多くと違って一夫一妻を守った。妃のあいだに少なくとも5人の子があったが、息子たちは1260年代より前に亡くなり、一人の娘はバルバンの息子ブグラー・ハーンに嫁いだ。何も成し遂げないまま、1266年にデリーで世を去った。2月18日とも11月19日ともいわれ、バルバンに毒殺されたとも伝わる。跡継ぎがなく、姻戚で摂政のバルバンが王位を継いだ。ミンハージュの著した『ターバカート・イ・ナースィリー』は、彼に捧げられた書である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物