伝記
ホスロー・ハーンは、北インドのデリー・スルタン朝で、ハルジー朝の王位を奪った人物である。生年は分かっておらず、1320年に没した。ハルジー朝の君主たちとは血縁がなく、第3代君主アラー・ウッディーン・ハルジーが登用した、ヒンドゥー教からイスラム教への改宗者の一人とされる。デリーの年代記作者アミール・フスローによると、彼と兄弟はバラドゥと呼ばれるヒンドゥー教徒の軍事集団の出身で、グジャラート地方の生まれだった。1305年、アイン・アルムルク・ムルターニー率いるデリー軍が中部インドのマールワーを征服した際に捕らえられ、奴隷としてデリーへ連れて行かれた。そこで改宗し、ハサン(のちのホスロー・ハーン)とフサームッディーンという名を与えられ、アラー・ウッディーンの側近マリク・シャーディーのもとで育てられた。
1316年にアラー・ウッディーンが亡くなると、奴隷出身の将軍マリク・カーフールが幼い王子シハーブッディーン・ウマルを傀儡の君主に立てた。まもなくカーフールは殺され、ウマルの異母兄ムバーラク・シャーが王位を奪った。ムバーラクはハサンを深く寵愛し、「ホスロー・ハーン」の称号と、かつてのカーフールの領地を与えた。1年とたたないうちに、宰相の地位に昇った。歴史家バラニーによると、ムバーラクは一瞬も手放したがらないほどだった。兄弟のフサームッディーンはグジャラートの総督に任じられたが、イスラム教を捨てたため地元の貴族に捕らえられ、鎖につながれてデリーへ送られた。ムバーラクは彼の頬を打っただけで、宮廷の高い地位を与えた。
デカンのヤーダヴァ朝は、カーフールの死後に独立を主張した。ムバーラクは1317年に遠征し、ヤーダヴァ朝の王ハラパーラデーヴァと宰相ラーガヴァは逃げた。ホスローはマリク・クトルグとともに軍を率いて追い、ラーガヴァの軍を完全に打ち破った。ハラパーラデーヴァも追われて捕らえられ、斬首された。翌1318年には、貢納をやめていたカーカティーヤ朝のプラタープルドラを討つため、クトルグらと軍を率いて首都ワランガルを包囲した。プラタープルドラは降伏し、定期的な貢納を約束した。
政治に関心の薄いムバーラクに代わり、実権はホスローに任された。バラニーは、ホスローが王の無理な扱いを恨み、ひそかに復讐を企てたと記す。ほかの家臣が警告しても、ホスローは中傷だと王を説き伏せた。さらに、ほかの有力者も自分の配下を持っているからと、バラドゥ族の兵を集める許しを得た。バヒルワールやグジャラートで兵を募り、『トゥグルク・ナーマ』によると、バラドゥの騎兵1万がヒンドゥー教の首長たちに率いられた。毎晩、300人から400人が宮殿に入った。1320年5月7日には、宮殿に集まるバラドゥについて調べるよう助言した王の師がいたが、王は怒って退けた。
1320年、ホスローはバラドゥと不満を持つ貴族を率いてクーデターを起こし、ムバーラクを殺して君主となり、「スルタン・ナーシルッディーン」を名のった。しかしパンジャーブ地方の総督ギヤースッディーン・トゥグルクはこれを認めずに挙兵し、デリーを落とした。ホスローは処刑され、在位は約2か月だった。王位はギヤースッディーンが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- モンテクローチェのリコルド (1320年)
- ミカエル9世パレオロゴス (1320年没)
- クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー (1320年没)
- マイタ・カパック (1320年)
- ヘルヴィヒ・フォン・ホルシュタイン (1320年代没)
同じ地域に関係する人物
- Balram Jakhar (2016年没)
- コチェリル・ラーマン・ナラヤナン (2005年没)
- ニザームッディーン・アウリヤー (1325年没)
- マハトマ・ガンディー (1948年没)
- チャンドラ・シェーカル (2007年没)