伝記
アルグは、モンゴル帝国のチャガタイ・ウルスの第7代当主で、1266年に亡くなった人物である。父はチャガタイの子バイダルで、チンギス・カンの曽孫にあたる。チャガタイ家の中では傍流であったが、第4代カアンのモンケの急死とそれに伴う混乱の中で、急速に地位を高めた。
1260年、アリクブケが4月に、クビライが6月に相次いで第5代カアンに即位し、帝国に二人のカアンが並び立った。クビライはブリの子アビシュカをチャガタイ・ウルスの当主に任命し、その兄弟とともに送ったが、アビシュカは陝西でアリクブケ派に捕らえられた。アリクブケは代わりにアルグを当主としてビシュバリクへ派遣した。この就任を1261年とする記述もある。これによって当主の座を失ったオルガナ・カトゥンと、その幼い息子ムバーラク・シャーは、権力を奪われた。オルガナはアリクブケのもとへ行って訴えた。アルグは中央アジアで、短期間のうちにチャガタイ家の領土の多くを支配下に置き、サマルカンドとブハラも手に入れた。領土はアルマリク地方からアム河畔に達し、15万の軍を集めたといわれる。アリクブケはアルグに、フレグが兄クビライを救いに来るのを防ぐため、アム河畔へ軍を進めるよう命じたともいう。
1262年の暮れごろ、敗戦で物資が不足したアリクブケは3人の使者をアルグのもとへ送り、家畜、兵器、金銀を徴発させた。あまりに多い徴発に怒ったアルグは使者を殺し、物資を取り返してクビライ側についた。アリクブケは裏切りを知るとアルマリクに攻め込み、アルグの軍をことごとく殺し、アルグはサマルカンドへ退いた。しかしアリクブケの将校たちは、その残虐さに愛想をつかし、飢饉もあって次々と離れ、クビライについた。残った兵がわずかになったアリクブケは、講和を求めてオルガナと、別失八里の長官マスウード・ベクをアルグのもとへ送った。ところがアルグはオルガナと結婚し、マスウード・ベクを財務長官に取り込んでしまう。マスウード・ベクはサマルカンドとブハラで莫大な貢賦を集め、アルグの軍は大いに潤った。やがてオゴデイ家のカイドゥが攻めてきたので、アルグは兵を出して撃退した。別の伝えでは、アルグはカイドゥがアリクブケを支持したことを口実に先に攻め、ベルケの助けを得たカイドゥに一度は敗れたが、オトラルの近くの戦いで勝ったともいう。
1264年にアリクブケがクビライに降ると、クビライは四人の王侯と三人の将軍による委員会を設け、アリクブケを助命すると決めた。さらに、西方のフレグ・カン、ベルケ・カン、アルグ・カンの三人の意見を聞くため、使者を送った。アルグは、自分がクビライの承認を得ないままチャガタイ・ウルスのカンになったので、意見を言う立場にないと答えた。フレグとベルケがクビライの処置に同意し、アリクブケは赦された。1265年にはベルケとの戦いに勝って、オトラルとホラズム、アラル海以東の土地を奪ったという。
アルグは1266年3月に亡くなったとされ、1265年とする説もある。アルマリクに葬られた。死後、オルガナはカラ・フレグとの子ムバーラク・シャーをカンに即位させた。クビライはこれを追認し、共同統治者としてイェスン・トアの子バラクを派遣したが、バラクはまもなくムバーラク・シャーからカン位を奪って自ら即位した。
同じ年に亡くなった人物
- シバン (ジョチ・ウルス) (1266年没)
- マンフレーディ (1266年没)
- ウマル・ムルタダー (1266年)
- ボーヴェのヴァンサン (1266年(推定))
- マルガレーテ・フォン・バーベンベルク (1266年没)
同じ地域に関係する人物
- アフマド・ファナーカティー (1282年没)