伝記
ロスチスラフ・ミハイロヴィチは、ルーシの公で、のちにハンガリー王国の高官となった人物である。生まれたのは1210年以降とも1225年ごろともいわれ、1262年に亡くなった。チェルニゴフ公ミハイルの長子で、母はガーリチ・ヴォルィーニ公ロマンの娘オリョーナ(マリヤともいう)である。年代記に名が初めて現れるのは1229年、ノヴゴロドの人々が父ミハイルを公に招いたときだった。1230年5月19日、聖ソフィア大聖堂で髪を剃る儀式を受け、父によってノヴゴロドの公の座に就けられた。しかし同年9月に霜害で大飢饉が起こると、父の反対派が民衆の反乱をあおり、父に忠実な市長官の屋敷が略奪された。ロスチスラフは元市長官ヴネズドとともにトルジョークを目指したが、ノヴゴロドの人々がもはや父を公に迎えないと宣告したため、チェルニゴフへ去った。ノヴゴロドは新たな公にヤロスラフを招いた。
父は1235年の終わりにガーリチを占領し、ダニールは逃げた。1236年、ロスチスラフはガーリチ公に据えられた。ベーラ4世が送ったハンガリー兵の助けでダニールの攻撃は退けたが、ロスチスラフは父ほどの軍人ではなかったとされる。1237年ごろ、リトアニアへの遠征に主だった貴族と騎士を連れて出たところ、手薄になったガーリチの人々は恐れてダニールを呼び戻した。ロスチスラフはハンガリーのベーラ4世のもとへ逃げた。タタール軍が迫ると、父子はベーラ4世を頼って縁組を持ちかけたが、王は断り、二人を国から追った。のちにミハイルは妻の兄ダニールと和解し、ロスチスラフは1240年にルーツクを与えられた。同年12月6日にキーウが落ち、ミハイルは1241年の春キーウに戻って、ロスチスラフにチェルニゴフを与えた。この年、ロスチスラフはダニールに対する2度の遠征を行った。1度目はバコタの包囲に失敗したが、2度目はしばらくペレムィシュリとガーリチを占領した。
1243年、ロスチスラフはベーラ4世の娘アンナと結婚した。1245年には義父とポーランド人の援助を得て再びガーリチの奪還を試みたが、ヤロスワフの会戦に敗れた。以後はハンガリーに退き、義父から与えられたスラヴォニアを治めた。ベリグラード(現ベオグラード)を含み、ドナウ、サヴァ、ドリナなどの川に囲まれた土地を管轄するマチェヴァの総督の地位には、1248年ごろ、あるいは1254年から就いて、死ぬまで務めた。
1250年代半ば、ロスチスラフはブルガリア帝国の内政に干渉した。娘のアンナ(エルジェーベトともいう)を、年少のブルガリア皇帝ミハイル2世に嫁がせ、大きな影響力を持った。ニカイア帝国との和平の締結も助けた。1256年にミハイル2世と死別した娘は、次の皇帝カリマン2世と再婚した。1257年の初め、ロスチスラフは娘を守るという名目で軍を率いて首都トゥルノヴォ(ヴィディンともいわれる)に入り、娘を取り戻した。カリマン2世は逃げ、ロスチスラフは自分がブルガリア皇帝であると宣言してハンガリーに承認されたが、ブルガリアの上流階級には承認されず、首都を掌握できなかった。失敗後はベリグラードに戻り、1262年に亡くなった。死ぬまで、自分をガーリチ公と称していたという。
妻アンナとの間には複数の子が生まれた。ベーラはマチェヴァの総督、もう一人はボスニアの総督となった。クニグンダは1261年にボヘミア王オタカル2世と結婚した。グリフィナはポーランドのレシェク2世と結婚し、マルギトは女子修道院長となった。ブルガリア皇帝ミツォ・アセンは、ロスチスラフの子ではないかという説もある。
同じ年に亡くなった人物
- マティルド2世 (ヌヴェール女伯) (1262年没)
- ムスタンスィル2世 (1262年没)
- イブン・アル=アディム (1262年)
- ボロルタイ (1262年)
- ギー1世・デ・ラ・ロッシュ (1262年(推定))
同じ地域に関係する人物
- イヴォ・アンドリッチ (1975年没)
- イリヤ・ペトコヴィッチ (2020年没)
- Aleksandar Nikolic (2000年没)
- ブラゴイェ・マリャノヴィッチ (1984年没)
- Mira Stupica (2016年没)